醒めない夢


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「はっ……あ…ああッ!」

しなる背中をコウの腕が抱き寄せる。
コウの腰の動きに併せて精を吐き出したシグが、潤んだ瞳でコウを見つめる。

すべての機能を停止した無音の基地に、ベッドの軋む音と二人の濡れた息遣いだけが、低く高く、途切れることなく響いていた。

月が傾き、部屋の奥までその光は差し込んでいた。
壁に映るシルエットは繋がったまま幾度も向きを変え、重なり合った。

やがて痛いほどに締め上げていたシグの内壁の抵抗が薄れ、全身の反応が鈍くなる。
筋組織の崩壊の予兆であった。

「……コ……ウ……」

シグの呼びかけに応えるように、コウは己の精を最奥へと解き放った。

「あ……波……」
「波?」

受け止めたコウの熱い迸りに押し寄せる波を感じたのだろうか。
うっとりと夢見るような瞳になったシグが綴る言葉を、コウは静かに聞いていた。

「波の音が……聞こえます。遠く、近く……」

組織が崩れ砂となってゆく音が、シグの内耳に響き、波の音のように聞こえるのだろう。
目を閉じて音に聞き入るシグは嬉しそうに微笑んでいた。

「…ッ……シ…グ……」

堪えきれずに漏らした嗚咽と共に滴がひとつ、シグの微かに開いた唇に落ちた。
滴を舐めたシグの表情が、ますます恍惚としたものへと変わる。

「ふふっ……海の水がしょっぱいって……本当だったんですね。
ほんのちょっと飛沫がかかっただけなのに、こんなにしょっぱいなんて……」

シグの意識はすでに夢の中へと飛び立っているようだった。
波打ち際を駆けているのか、はたまた波間に向かってその身を躍らせ、海に抱かれて空を見上げているのか……。

くすくすと小さな声で笑うシグに、苦痛の色は見られなかった。

「あ、もう……。コウってば、そんなに水かけないでくださいよ……」

言葉に出来ない想いが幾筋もの涙になってシグの顔に零れ落ちていた。
シグの下肢はすでにその活動を停止し、なんの反応も示さなくなっていたが、コウは繋がりを解こうとはしなかった。

「……はしゃぎ……過ぎ、なんだよ、お前は……」

シグの瞳に映る夢の中の自分が、笑っている事を祈りながら、コウは答えていた。

「少し、休め」
「そうですか? あ、そういえば随分暗くなってきましたね……」

月は沈み、空は白み始めていた。
シグの瞳に光は届かなくなっていた。

シグの髪を梳くように撫でたコウの指に、束になって抜け落ちた髪が絡まり、砂となってすり抜けても、シグは楽しそうに笑っていた。

ひびの入り始めた唇が何事か呟き、かすかに上向いた。
その唇にコウが自分の唇を重ねた時、その瞬間は訪れた。

「おヤすミナ……さイ……ア…リガ…と……」

呂律の回らぬ片言の言葉と共に、コウの頬に添えられていたシグの手がぱさりと落ちた。
床に落ちる影がひとつきりになり、あたりは静寂に包まれた。



――『貴方のキスで、終わらせてください』――



最期の瞬間、シグは一時現実に戻っていたようであった。
それでもシグは、“さよなら”ではなく“おやすみなさい”と告げて逝った。
砂と化すその瞬間まで、その顔は微笑んでいた。
無垢な子供が幸福な夢を見ながら眠るその寝顔さながらに。

「礼…ッなんて……言う…なッ! ……馬…鹿……野郎ッ!!」

コウが自分にもたらすのは、廃棄処分という不幸ではなく、醒めない夢を見続ける幸福なのだとシグは言い続けていた。
役に立てて良かったと、最高のご褒美ですと嬉しそうに笑っていた。

「殺されるのが、最高の…褒美だなんて……ちくしょうッ……」

最初から選択肢は一つだった。
忠告も受けていた。
他者の命を奪った後の、自分の精神を平静に保つ訓練も積んでいた。
すべては計画通りに進み、任務の遂行は完了したのだ。

相手はただの『レプリカ』なのだ、気に病む必要はないと理性が告げる。
理性に従い嗚咽を呑み込もうとすると、猛烈な吐き気に襲われた。

自分は、死にかけの『レプリカ』を抱いていたのだ。
内側から崩れゆくさまを感じながら、萎えることなく抱き続け、快感すら得ていた。
自分自身に対する嫌悪感が吐き気となってこみ上げ、堪えきれずに、洗面所に駆け込み嘔吐した。

この3日間、水分補給をするだけで食事らしい食事などしていない。
吐き出すものなど何もないというのに、コウは喉が切れ、血が混じるまで吐き続けた。

後悔と懺悔と罪悪感のすべてをシグの名に載せて。












◆◆◆◆◆











「ご苦労だったね」

満足気な笑みを浮かべた男からの労いの言葉を、コウはベッドの上で聞いていた。

「帰還するなりでは、少々きつかったかね?」

うつぶせたまま答えようとしないコウの裸の背を男の手が撫でまわす。

「別に」

男の手が尻に届く寸前で、コウは短く答え身体を起こした。

「次の任務は? できれば涼しい場所にしてくれるとありがたい」

シャワーも浴びずに手早く制服を身につけ始めたコウに、男は呆れたように言葉をかけた。

「そんなに慌てる事もないだろう。ラボからも健康診断を受けるようにと連絡がきているんだし、しばらくはゆっくりするといい」
「健康診断……ね。一体何を診察するのやら」

口元だけで薄く笑ったコウに、男は1通の封書を差し出した。

「これは?」
「次の任務は少々特殊でね。そのための訓練カリキュラムを組んである」

今までも特殊でない任務などなかったではないかと心中で呟きながら、コウは黙って封書を受け取った。

「訓練に入る前に1週間の休暇を取っておいた。会いたい者が居るなら会っておくといい」
「命の保障はできないというわけですか」
「そういう意味ではないよ。ただ訓練が終わり次第、任地へ飛んでもらう事になるのでね」

保障できないのは次の休暇だとコウの肩を叩いた男は、口元に笑みを浮かべてはいたが、その目は笑っていなかった。

「なら、貴方と休暇を過ごしたいものですね。総督?」

そういって微笑むコウの目もまた、笑顔とは遠い色をしていた。

「可愛い事を……。だがあいにくキミの相手ばかりをしているわけにもいかないのでね」
「それは残念です」

何の感情も交差しない言葉だけのやり取りと、ついでのようなキスを残してコウは部屋をあとにした。

自室に戻りバスルームに篭ると、全身を洗い流した。
初めの頃は皮膚が赤くなるまで擦り続けたものだったが、今ではもう中に残った物を軽く掻き出すだけで気が済むようになった。

どうせまたすぐに汚れるのだ。
そう思うようになったのが何時だったのか、それすら思い出すことも無くなっていた。

砂漠の基地を後にしたコウは、指揮官が熱病に罹ったからと、本部に帰投する間もなく、立て続けに密林地区での魔物討伐の助っ人に駆り出された。
予定から2週間遅れで戻ってきてみれば、報告書の提出先は総督のベッドの中だった。

人語を解さぬ知性の無い魔物の駆除は、感情をそぎ落とすのに丁度良かった。
上司の首を絞めずに無事に「報告」を終えることができたのも、存分に殺戮を堪能し、血を見るのに飽きていたからだと言っても過言ではない。

シグを殺した心の傷を、他の命の血潮で埋めた。
身体を差し出し、堕ちてゆく自分を嘲ることで、罪悪感に背を向けた。
そうすることで吐き気はおさまり、時折胸がつかえる程度になった。

バスタオルを腰に巻いただけの姿で、備え付けの冷蔵庫の扉を開ける。
取り出したミネラルウォーターを一息に煽ると、小さな笑い声が聞こえた気がした。


――“髪、濡れてますよ?”――


そう言いながら髪を拭ってくれた少年は、もういない。
コウは部屋の窓を開け、机の上の小さなガラス瓶に視線を向けた。

「ここでは俺も、お前と同じような扱いなんだよ」

そのガラス瓶は、シグが宝物だと言って見せてくれたものだった。
あの時は小さな貝殻だけが入っていた瓶の中に、今は白い砂が一緒に詰めてあった。
瓶の後ろには、古ぼけた海の写真も立てかけてある。

白い砂は、崩壊したシグの一部であった。

「こんなになっても付き合わせて、悪いな」

ただの自己満足だと判っていた。
そこにあるのは自分が壊した『レプリカ』の成れの果て。
罪の意識から逃れる為に、懺悔の象徴として、許しを請う為に持ち帰った。

「俺には、お前の死を悼む資格なんて無いけどな」

守りたい命がある。そのためにシグの命を犠牲にした。
今更後戻りなど出来はしない。諦めればシグの死は意味を失ってしまう。

今は何も答えない、かつてシグだった白い砂に語りかける。

「地獄に堕ちる前に、1週間の休暇だとよ。海でも見に行くか?」

窓から舞い込んだ一陣の風が、コウの首筋に絡まり、頬をなでるようにして通り抜けた。

「シグ……」

切り捨てたはずの感情が、ふいに溢れてこぼれそうになる。
目を閉じて深く息を吸い込んだコウは、ゆっくりと吐き出しながら目を開けた。
こんな事くらいで揺らいでいるわけにはいかない。

ガラスの瓶を手に取り、胸ポケットにそっとしまう。

「本物の波の音……聞かせてやるよ」

心からの笑みを一瞬だけ浮かべたコウは、部屋の窓と一緒に自分の心の窓も閉じた。






END


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