醒めない夢


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額に触れるひんやりとしたタオルの感触に、シグはゆっくりと目を開けた。
纏まらない思考のまま周囲を見回すと、見慣れた背中が立ち去ろうとしていた。

「…少…尉?」

立ち止まった背中が振り返り、こちらへと無言で近付いてくる。
視界がぼやけてはっきりとした像を結べない。また、間違えてしまったのか。
あの黒ずくめの男を呼び止めてしまったのかもしれないという不安がよぎる。
時間の経過が判らない。終わったのか、それともこれは別の何かの始まりなのか。

瞬きを繰り返し、ようやく焦点の合った視界に見えたのは、呼びかけた通りの人物であった。

「よお」

聞きなれた声がひどく懐かしく感じられた。
上司の前で寝そべっているわけにはいかない。
起き上がろうとして、四肢が拘束されているのに気付いた。

疑問の眼差しを向けるシグに、コウは戒めを解きながら、薬がなかなか抜けなくてなと申し訳なさそうに語った。
コウの手を借り身体を起こしたシグは、そこがコウの私室であることにようやく気付いた。
退去の日が近いのだろう。室内は片付けられ、私物らしい私物は見当たらなかった。 不用品を放り込んだらしいダンボールの箱から、スーツの袖と思しき黒い布地がはみ出していた。

何があったのか訊こうとしないコウに、シグは、すべてを知っているから訊かないのだと悟った。

「僕は…貴方のお役に立てましたか?」

憤りは無かった。裏切られたとも思っていない。
むしろ自分が正気を取り戻してこうして会話をしている事が不思議だった。

「最後までお前の目を誤魔化せるとは思ってなかったが、まさか初見で見破られるとはな」

確信があったわけではない。ただなんとなくそんな気がしただけで。

「悪いな。俺も所詮、軍に飼われてるようなもんだから」

悔しいとか、辛いとか、そんな感情はない。
ただ、自嘲するようなコウの薄い笑いが哀しかった。
他の研究員達のように欲情してくれたならまだ救われたかもしれない。
そういう対象ですらなかったと思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。



何時の頃からか、夜は誰かとベッドを共にするのが当たり前になっていた。
一人ずつ順番に部屋を巡る夜もあれば、複数の男たちを相手に朝を迎えた事もあった。
それが自分の役割なのだと何の疑問も抱かず、命じられるままに身体を開いてきた。

コウの専属だと聞かされたとき、シグは内心喜んでいたのだ。
ヒトも『レプリカ』も隔てなく接するコウの態度は新鮮だった。
自分を気遣ってくれる言葉や笑顔が嬉しかった。
このヒトに抱かれるのなら、何をされてもきっと快感としか感じないだろうと思った。

だがコウは一度もそんな素振りを見せた事は無く、触れるといっても、労いの言葉に添えて頭や肩に軽く手を置く程度だった。




「僕は、貴方の好みのタイプではありませんか?」

夜が来るたびに抱いていた疑問。
廃棄処分になる前に、これだけはどうしても訊いておきたかった。

「頭の中まで、弄られちまったんだな」

答えにならない言葉が、コウの口から漏れた。

「お前はもともと、野郎どもの性欲処理のために作られたわけじゃなかったろ?」

シグが黒ずくめの男にコウの姿を見出したのは偶然ではなかった。
髪型や服装などに惑わされずに対象の骨格や動作のクセなどから人物を特定する能力こそ、本来シグに期待されていたものの一つであった。

顔の整形や皮膚の張替えが容易な現在、諜報機関に属する者の素顔を特定する事は難しい。 骨格や行動パターンを入力した検索システム付きの防犯カメラとて、死角は存在する。
また該当人物を特定できたとしても、屋外までのトレースをし続けるには、対象に発信機でもつけない限り機械では限界があった。

適正があれば、人間でも訓練をつむ事でこういった能力は取得できる。 だが『レプリカ』であれば、始めからそれらの能力を高いレベルで備えさせる事ができるのだ。
魔族の中にはそういった索敵能力に長ける種族も多い。
特定の能力に限って相性のいいゲノムを組み合わせる実験は、すでに実用段階に入っていた。

「そんな身体にされなけりゃ、行く先はいくらでもあったのにな」

そう言いながらシグを見つめるコウの眼差しは、苦渋に満ちていた。

単にSEXに慣らされただけなら良かった。
標的と予想される相手と関係を持つ事で精液を入手できればDNAを照合する事ができる。
技巧が巧みならばそのまま相手を篭絡し、こちらに有利な情報を引き出すことも可能だろう。
だが、自身が性欲に溺れ誰彼構わず欲情するようでは話にならなかった。

それでもあんな薬さえ投与されなければ、抜け道はあったのだ。
例え結末が同じであっても、時と場所を選ばせてやる事くらいはできたはずだった。
だが、今のシグにはもう、それだけの時間は残されていなかった。

レシピからワクチンの組成式を導き出すのは不可能ではなかったが、時間が足りなかった。
コウは、手っ取り早くワクチンを作り出すために、シグに使ったのと同じ薬を自分に使った。

コウに毒物や麻薬・媚薬の類は一切効かない。それが未知の物質であっても、一旦体内に取り込めば症状が全身に回るより早く抗体を作り上げる事が出来た。

しかし、コウの強すぎる抗体は、特殊なゲノムで成り立っている『レプリカ』の身体には毒でしかなく、コウの血液を原液のまま体内に取り込めば、わずか数時間で『レプリカ』の肉体は崩壊する。それは精液でも同じであった。

与えられた任務はサンプルの抹消なのだから、わざわざ自分の体内で抗体を生成しなくとも、あのままシグを抱いていれば、あるいは自分の血液をそのまま投与すれば、薬の効果が切れるより先にシグの命は終わり、任務は完了していたはずだった。

けれど、その方がシグにとっては幸せなのかもしれないと思いながらもコウには、夢うつつで自分の名を呼ぶシグを、そのままの状態で死なせることは出来なかった。

コウはシグを正気に戻す為に、自分の血液を薄めてワクチンの代用にしたのであった。

薬の効果を打ち消した後も抗体は残り、シグの体内を巡り侵食してゆく。
他の毒物と異なり、微量に取り込むことで耐性がつくというわけではなかった。

「お前が嫌いだったわけじゃない」
「ヒジリ少尉?」
「もう、そんな呼び方は、しなくていい」

やるせない表情で苦く笑ったコウは、シグをそっと抱きしめた。

基地内の機材も人材も全ての搬出は完了していた。
所長の死亡も確認し、データの回収に至っては新薬のレシピというおまけまで付いた。
あとは基地そのものを瓦礫の山にすれば、コウのここでの任務は終わる。


サンプルであるシグの抹消を除いて。


シグの命が尽きるまで、早くて3日。運がよければ5日位はもつかもしれないが、それもこのまま寝たきりで安静を保っていての話だった。
動けばそれだけ死期は早まる。

「コウ……様?」
「様なんかいらない」
「でも……」
「俺は、そんなに偉くない。軍の飼い犬に…様なんてつけるな!」

ずるずるとベッドの脇に崩れ落ちるように膝を付いたコウは、シグの太ももに顔を埋め、うめくように言った。


「お前を死なせたくはなかった。けど俺は……俺にはどうしても守りたい命があるんだ」






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