最初は背中の表面だけに感じていた温もりが、じんわりと身体の芯まで伝わってくる。
まるで温泉にでもつかっているような心地に包まれ、シグはうっすらと目を開けた。
「あったまったか?」
定まらぬ視界に飛び込んできたのは、燃えるような夕焼け空と、なぜか二つ並んだ夕陽であった。
「……」
「……おい?」
片方の夕陽が半分に欠けるのを見て、シグはようやくそれが誰かの瞳である事に気付いた。
ゆっくりと瞬きをすると、焦点があってくる。
そこには、夕焼け色の髪と目をした青年の顔があった。
「誰?」
「俺」
どこかとぼけたような、くせのある、少し低めの良く通る声。
「……もしかして、焔さん……ですか?」
「なに? お前も俺の名前知ってんの? 俺ってそんなに有名人?」
「中身だけ焦げてたヒトがそう呼んでいたのを聞いたの、僕なので」
「はぁ?」
「それより、僕はどうして……その……」
「ん?」
シグは、胡坐をかいて座る焔の膝に横抱きにされていた。
額を寄せるように近付く焔の顔に、知らず身体が緊張を覚える。
「ち、近いです!」
「……ふうん?」
見慣れぬ色の瞳に間近で覗き込まれ、落ち着きを無くしたシグの顔を、焔の視線が遠慮なく這い回る。
シグの背を支えている左腕に力がこもり、空いている右手がシグの顔に掛かる髪をかき上げた。
露わになった額に焔の唇が触れた瞬間、シグは焔の胸元を思い切り押しのけていた。
「やめてくださいっ!」
転げるように焔の膝から逃れ、なおも後退りするシグを、焔はぽかんとした表情で見送っていた。
「あ……。ご、ごめんなさい」
「いい、いい、気にすんなって」
一瞬傷ついたような表情を見せた焔に、シグが素直に頭を下げると、焔は何でもなかったように明るく笑い、こっちこそ勘違いするような真似をして悪かったと詫びてきた。
焔の気遣いに後ろめたさを感じたシグは、ほんの少し距離を戻し、居住まいを正して言葉を続けた。
「違うんです。体温を、調べようとしてくれただけだっていうのは判ってます」
「じゃ、なんで?」
「……同じ、だったから……」
焔の触れた額にそっと指先を添えながら、シグはうつむき唇を噛んだ。
「……ダイゴも、そうして熱を測ってくれた、からっ……」
今にも泣き出しそうにか細い声でダイゴという名を呟くシグに、焔はどうしたものかと頬を掻いた。
「なぁ。ダイゴっつーのは、さっき上に戻ってったおっさんの事だよな?」
「……はい」
「おっさん、上には死にに行ったのか?」
「ちっ、違いますっ! 縁起でもない事言わないで下さいっ!」
「ならなんで、死人(しびと)を思い出すような声で名前を呼ぶんだ?」
「えっ……あ!」
慌てて口元を両手で覆い隠すシグに、焔はやれやれといった風に軽く息を吐いた。
「ま、おっさんに置いてかれただけでフリーズしかけてたヤツじゃ、しゃーないか」
「フリーズってなんですか?」
「ん? そのまんま。お前、さっきまで異様に体温下がってたんだよ」
確かにサカキの背を見送りその気配が遠ざかった瞬間、血の気が引いてゆくような感覚に陥った。
他人の顔で自分を見つめるサカキを想像し、気が遠くなっていったところまでは記憶にある。
精神的なダメージが、肉体にも影響を及ぼしていたという事なのだろうか。
「あ! じゃ、さっき焔さんが僕を膝に抱いていたのって……」
「おうよ。ぬくかったろ?」
「あ、はい、ぽかぽかして気持ち良かったですけど……あれ?」
焔が自分を温めるために抱いていてくれたのは判ったが、身体が離れた今も、風呂上りのような心地良さが残っているのが不思議だった。
「俺の特技。外からだけじゃなくて、中からもじっくりあっためられるんだよ」
疑問がそのまま顔に出ていたのだろうか、焔が得意気な笑みを浮かべて種明かしをしてくれた。
「ま、やりすぎると焦げるけどな」
意味ありげに階上(うえ)を示唆する仕草に、シグの頬が無意識に引き攣った。
体内から焼かれた死体。
あれと同じ能力を体験したのだと思うと、あまり素直に礼を述べる気にはなれなかった。
「あ、あはは……」
「そんなにびびんなよ。俺ってば傷ついちゃうだろ?」
「うわ、すすすいません! あっあっありがとうございました!」
慌てて下げた頭に、焔の手のひらがぽんと乗った。
くしゃりと髪を掻き混ぜられて顔を上げれば、焔は何故か安堵の表情を浮かべていた。
「お前、下手したらあのまま死んでたぞ?」
「はい?」
「純粋な魔族なら永眠ってトコだが、お前、『レプリカ』だろ?」
「そうですけど。あの、魔族なら永眠って……それ、どっちみち死ぬって意味じゃ……」
「ヒトや『レプリカ』ならそうだろうな」
「え?」
魔族はその血が純粋であればあるほど、肉体は強靭になり能力も強くなるが、それに反比例するように、精神は、良く言えば繊細に、悪く言えば脆弱になるのだという。
「魔族っつーのはさ、心に深いダメージを負うと、そいつを癒す為に眠っちまうのよ」
それこそ100年でも200年でも眠り続けるのだと聞いて、シグは永眠の意味を理解した。
永遠の眠りではなく、永い眠り。魔族の寿命の長さを思い知らされる事実だった。
「ダメージつっても、根がへたれなもんで惚れた相手に先立たれたとか、捨てられたとか……」
誰かさんと同じだろと苦笑しながら視線を寄越す焔に、シグは顔を背けてうつむいた。
サカキは死んだわけでもシグを捨てていったわけでも無かったが、あの時は、それに匹敵するほどの喪失感に襲われていたのだろう。文字通り血の気が失せた。すうと身体が冷えていくような感覚は、極度の低体温症に陥り死に掛けていたという事らしい。
「お前って、見た目はヒトっぽいけど、中身は俺ら寄りみてぇだから、気ぃつけろな?」
「気をつけろと言われても……。僕、『レプリカ』ですし、何をどうすれば……」
「なんでもかんでも悪いほうに考えるのはよせってコト」
「はぁ」
「おっさんは、お前に、自分を丸ごと預けて行ったんだろ?」
――『お前が俺を覚えておけ。最悪、俺が俺を忘れちまっても、お前が俺をフォローしろ』――
「あ……」
「お前がフリーズしちまってたら、おっさん、路頭に迷うんじゃねぇの?」
――『間違えちゃ駄目だ。キミが死んだら、大佐は壊れちゃうよ? キミは大佐を壊したい?』――
サカキの言葉を思い起こすシグに投げかけられた焔の一言が、サキに言われた言葉を引き出した。
「僕、また間違えるところだったんだ……」
「だーかーら! 違うだろ?」
「え? だって」
「そこは『今度は間違えずに済んで良かった』って思えっつーの!」
ぴんと額を指先で弾かれ、シグは思わず顔を上げた。
ニカッと歯を見せて笑う焔につられ、自然と緩んだ口元に淡い笑みが浮かぶ。
魔族の心は傷付き易いと言うくせに、思考はかなり前向きな焔の言葉は、シグの心を軽くした。
「純血種の魔族ってすごいなぁ……」
シグは我知らず、感嘆の想いをそのまま唇にのせていた。
ふいにもたらされた賞賛の言葉に、焔の頬がうっすらと赤味を帯びる。
「そりゃどーも……」
そっけない一言だけでそっぽを向き、ぴたりとおしゃべりをやめてしまった焔にシグがにじり寄る。
「焔さん?」
「……なんだよ」
「もしかして、照れてます?」
「照れてるっつーか……こっ恥ずかしいっつーか」
顔を覗き込んで来るシグの瞳に輝きが戻ったのを確かめた焔は、冷やかしの言葉を受け流しながら、再び安堵の息を吐いた。
「うお?」
「あ」
頬を寄せ合うような距離になった焔とシグの間に、ラセンの少年の小さな頭が割り込んできた。
「どした? グリンに構ってもらってたんじゃないのか?」
焔の言葉に耳を傾けるそぶりも見せず、少年は焔の膝に陣取った。
「へぇ、可愛い。こんにち……え?」
ほんの一瞬、ちらりと向けられた視線の冷ややかさに、シグの背筋に戦慄が走った。
「ああ、悪ぃ。こいつコミュニケーション能力ゼロだから」
「は? あ、はぁ」
「うれしいとか、かなしいとか、『レプリカ』レベルの感情もねぇの」
「そ、う……ですか」
少年がシグに向けた威嚇の視線に、焔はどうやら気付いていないらしい。
そこが定位置なのか、少年は座椅子にでも座るように、焔の胡坐にすっぽりとはまる。
焔の両腕がゆったりと少年の身体を包み込むと、シグを突き刺す視線が消えた。
少年の放った視線には明確な敵意が潜んでいた。
故意なのか、無意識の条件反射なのかは不明だが、感情が欠落しているわけではないように思える。
もしや焔の気付かぬうちに少年に感情が芽生え始めているのだとしたら、知らせておいたほうが良いのでは、とシグが口を開こうとした時、再びピンポイントのブリザードが吹き荒れた。
「……えーっと」
「ん?どした?」
「いえ、ちょっと寒気が」
湯冷めしたんでしょうかとおどけて笑い、焔の背後に視線を移すとグリンの苦笑いとかちあった。
焔がシグを暖めている間に、グリンも同じ経験をしたらしい。
視線を戻すと焔の胸に背中を預けた少年は、うつらうつらと舟を漕ぎ始めていた。
無防備な寝顔は幼く、緩んだ口元は笑みを浮かべているようにも見えた。
「こいつ、寝てるときの方が表情豊かでなー」
少年を横抱きに抱え直し前髪を撫でる焔の顔は、見ている方が恥ずかしくなるほど甘く蕩けていた。
「そんなこと言ってると、その子、そのうち永眠しちゃうんじゃないですか?」
「ないないない。俺の言葉が通じてるとも思えんし」
シグの言葉を否定する焔の笑顔は、このままでいいんだと言っていた。
「でも、少しぐらいは、おしゃべりしたいなーって思いません?」
乱れた髪を直しながらシグの隣にちょこんと座ったグリンが、少年の寝顔を覗き込んで聞いた。
「んー? そりゃ、まぁ……名前ぐらいは呼ばれてみてぇなとは思うけどな……」
少年の身体がごそりと動き、その頬が焔の胸にすり寄せられた。
むにゃむにゃと口元を動かしながら、隠すように顔を埋める。
穏やかな眠りを願うように、焔の唇がそっと少年の髪に触れた。
焔には見えないであろうその瞬間、少年の唇が小さく“ほむら”と形作って閉じたのを、シグとグリンは複雑な思いで見届けていた。
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