お終いの街3


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「う〜〜気持ち悪い……」

 真っ青な顔で蹲ってしまったサキの背をさすってやりながら、コウは胸ポケットから端末を取り出し時刻を確認した。十五分と言い置いてきたのだが、すでに三十分が過ぎていた。

「水ぐらい持って出れば良かったな」

 端末を戻しながら軽く舌打ちをして再び天井を振り仰ぐ。いくら目を凝らしたところでその先の光景が見えてくるわけではなかったが、何が行われているのか見当がつくだけに、ついつい睨みつけてしまうのであった。

「あ!」
「どうした?」

 ふいに顔を上げたサキの背を、コウが支え抱き寄せた。

「サキ?」
「消えた……」

 安堵の表情を浮かべたサキは、コウの胸に身体を預け大きく息を吐いた。
 額に滲んだ汗を、コウの唇がそっと拭う。
 少しずつ位置を変えながら繰り返されるその温もりは、胸につかえた異物感や身体に残るこわばりまでをも取り除いてゆくようだった。

「ありがと。も、大丈夫。今なら動けるから、みんなのとこ、戻ろう」
「まだ呼ばれそうなのか?」
「多分……。全部で六人……だったよね……」
「一戦終えてのインターバルってことか」
「じゃ、ないのかなぁ……」

 儀式の手本と称して教祖なり指導者なりが最初に交わりを披露し、信者たちが後に続くというのは、この手の集団の作法としてよく聞く手順であった。

「だったらすぐに次が始まるだろう。おぶさっとけ、その方が早い」
「うん、そうする」

 歩いて戻れないわけではなかったが、身体を密着させている方がいいような気がしたサキは、素直にコウに背負われた。煙草の匂いのシャツに顔を埋めると、全身の緊張が解けてゆく。

「へへっ」
「どうした?」
「コウの匂い、好きだなぁって」

 歩くたびに振動でぱふんと漂う匂いが嬉しい。

「匂いだけか?」
「知ってるくせに」
「聞かなきゃ言わんだろ?」

 背中越しの声が、身体に直接響いてくる。
 触れ合っているという実感が、よりいっそう安堵感を深くした。
 そんな場合では無いと判っているが、甘い気分がサキを満たす。

「好き。大好き、全部好き」

 日頃は羞恥が勝って言えない言葉が、不思議とすんなり口から零れた。

「全部ってのは……」

 大雑把過ぎではないかと不満を漏らすコウに、拗ねたようなサキの問いが被る。

「だったらコウは? コウならなんて答えるのさ?」
「お、れは」

 自分はどうかと訊かれ言葉に詰まる。

 サキの全てが愛しい。
 髪も瞳もぬくもりも。
 笑顔も泣き顔も、ふくれっ面でそっぽを向いた横顔も。

「そうだな……他に言いようがない、か」

 サキという存在そのものが愛おしいのだ。全部と言うしかないだろう。

「俺は……お前の全てが愛おしいから」
「……俺の答えと一緒だよ、それ」
「そうか? 俺の方がレベルが上だろう」
「何のレベル!?」
「愛情」
「……コウって時々すんごい恥ずかしい……」

 照れ隠しにコウの肩口に顔を埋めるサキに、まだまだだなと、笑みと余裕を含んだ声が届く。
 そのくせ髪の間に見え隠れする耳は、いつもより赤味を帯びていた。
 きっと言ってしまってから本人も恥ずかしくなったのだろう。
 サキは気付かぬふりをしておこうと、込み上げてくる笑いを噛み殺した。

 背中に小刻みな震えを感じ、コウはそっと後ろを盗み見た。
 サキの震えが笑いを堪えているだけなのを確かめた横顔に、ふっ、と小さな笑みが浮かぶ。

(それでいい。おまえはもう「礎」なんかじゃない)

 俺の想いだけを受け止めていればいいのだと、声に出さずに呟いたコウは、視線を戻し歩みを速めた。

「入るぞ」

 室内の状況を考慮し、一声かけて中へと入る。
 箱型のデスクの向こう側から、返事の代わりに大きな手が上がるのが見えた。
 カチャカチャとベルトを直す音が聞こえ、大柄な体躯がのっそりと立ち上がる。
 ほつれた前髪を後ろに撫でつけながら現われたサカキの上半身は、裸であった。

「……もう少しゆっくり戻った方が良かったか?」
「いや、丁度良かった。……すまんが、ついててやってくれるか?」

 コウの背から顔を覗かせているサキに視線を移すサカキの顔に、困ったような笑みが浮かぶ。
 状況を察したサキがシグへと駆け寄る姿を目で追いながら、サカキは深い溜息をついた。

「前を弄るだけじゃ治まらなかったのか?」

 言葉と同時にコウから差し出された煙草を、サカキはふんと鼻を鳴らして受け取った。

 無言のまま咥えた煙草の先にライターの炎が揺れる。
 礼の代わりに先端を上下に軽く動かし、火を点けた。

 思い切り吸い込んだ煙を咥え煙草で吐き出せば、まるで己の心境を乗せているように、もやもやと顔の前に広がり流れていった。

「なんかのスイッチでも入っちまったみてぇに、自分じゃどうにもできなくなってた」

 再び深く吸い込み、今度は煙草を口から離して細く吐き出す。
 ふう、という溜息のような呼気と共に流れ出た白煙は、細い筋となってたなびき消えた。

「あんあん喘ぎながら、ごめんなさい、すみません、の繰り返しで終いにゃ殺してくれだとよ」

 できるか馬鹿野郎、と吐き捨てるように言ったその声が小さく震えていた。

「あいつ……俺が、前のシグの乱れっぷりとダブらせちまったのに気付いて……」

 前のシグ――コウの顔にも苦渋が宿った。

 洗脳と、強度の催淫剤の投与で壊れてしまった哀れな『レプリカ』の少年。
 快楽の絶頂で死なせてやる事しかできなかった黒髪の少年の名もシグといった。

「あいつが悪いわけじゃねぇっ! なのに、思い出させてすみませんなんてぬかしやがって」

 火のついたままの煙草を握りつぶした拳が戦慄いていた。

「あいつも、知ってたのか……」
「俺が思い出したのと同じ頃に、本部から送られて来た資料でな」
「資料?」
「当時の報告書かなんかだろう。名前は消してあったが書いたのは多分、あんたのはずだ」
「そうか」

 やりきれない空気が二人の男の間に漂う。
 沈黙を紛らすように、コウが煙草に手を伸ばす。
 火をつけようとしたところで、デスクの向こうの気配が動いた。

「気がついたようだな」

 コウの言葉にサカキの身体が一瞬強張った。
 殺してくれといいながら意識を手離したシグに、どんな顔をすればいいのか判らないのだろう。
 情けない表情で立ち竦むサカキの背を、コウの手が、押し出すようにポンと叩いた。

「何があいつをそこまで追い詰めたのかは知らんが、サキがついてる。大丈……」
「シグ駄目だっ!」

 なごみかけた空気をサキの逼迫した声が引き裂いた。
 同時にパシンと乾いた音が響き、赤い液体を満たしたアンプルが床に転がった。

「コウっ!」

 サキの声が悲痛なものへと変わる。
 アンプルの中身を悟ったコウは、シグの白い腕が伸びるより、一瞬早く拾い上げた。

「返してくださいっ!」
「駄目だ」

 拾い上げたアンプルをサカキへと手渡したコウは、厳しい視線でシグを見据えた。
 コウの視線に威嚇され動きの止まったシグを、サキが背後から飛びつくように抱え込む。

「良かったぁ……」
「良くないですっ! サキさん、離して! ダイゴっ! お願いだからそれを僕に!」

 アンプルを手にして半ば呆然と事の成り行きを眺めていたサカキに、シグの血走った目が向けられた。

「シグ……?」
「渡すなよ。渡せばこいつは灰になっちまう」
「ッ!?」

 言われた途端、手の中の赤い液体が毒々しい物に見えてくる。
 灰になる――『レプリカ』を灰にしてしまう赤い液体とはすなわち――

「まさか、あんたの……」
「飲んで片付けちまえ。ヒトなら予防注射の代わりになるだけだ。害はない」
「飲っ……捨てちまえばいいだろが」
「どこにだ? 一滴触れただけでも駄目な奴は駄目なんだぞ?」

 砂に吸わせても、水で薄めても、その効果は変わらない。
 アンプルの中身を吸った砂が目に入っただけでも危険なのだと言われ、サカキは顔色を変えた。
 渋々と目の前にアンプルをかざし、軽く振る。
 粘度の低い液体は血液そのものというわけではなく、精製されたもののようだった。

「不味そうだな……」
「悪かったな」
「あんたが自分で飲めばいいんじゃないか?」
「お前の部下の持ち物だろう」
「……ま、仕方ねぇな」

 ぱきりと先端を折り、一息に中身を煽る。
 ごくりと音を立てて飲み込んだのを見たシグが、その場に崩れるように蹲った。
 裸のままの背中が震えながら上下する。
 サキの手がその背をゆっくり撫でると、シグの口からしゃくりあげるような声が漏れた。

「……っく……えぐっ……ごめ……さい」
「大丈夫……誰も怒ってなんかいないから」
「ちがっ……ダイゴ……ぼ、く……は……ダイゴ……ダ、イゴ……」

 サカキの名を呼びながら泣きじゃくるシグを、サキの腕がふわりと抱き寄せる。

「大丈夫。怯えないで、悲しまないで。大佐はちゃんと、キミを好きだよ?」

 零れる涙を吸い取るように、サキの唇が頬に触れる。

「間違えちゃ駄目だ。キミが死んだら、大佐は壊れちゃうよ? キミは大佐を壊したい?」

 耳元で囁くように語られた言葉に、シグの涙はぴたりと止まった。

「大佐のこと、好きなんだよね? ご主人様としてじゃなく」
「ッ!?」

 サカキを好きなのだろうと確認を求められ、シグは途端に青褪めた。

 本来『レプリカ』とは、ヒトに仕えるためだけの存在なのだ。
 求められるのは絶対的な服従のみ。恋愛感情など求められてはいない。

 自分が規格外なのだという自覚のあるシグは、サキの言葉を非難と受け止めた。

「すっ、すみませんっ!」
「どうしてそこで青くなるかなぁ……」
「えっ……」
「可愛くないよ、そういうの」
「ええっっ???」

 ますます顔色を無くしていくシグに、サキはやれやれといった風に首を振った。

「そこはさぁ、顔真っ赤にしてうろたえるとか、頬っぺたポッとピンクに染めるとか……」
「サキ……さん?」
「大佐の前でもそうやって謝ってるの? 好きになってごめんなさいって?」
「いいえ!」
「だったらなんで……あ、そうか!」
「え?」
「俺、別に責めてるんじゃないよ? ってかむしろ応援してる」
「応援って……」

 毒気を抜かれ、ぽかんとした表情を浮かべたシグに、サキはようやく笑顔を向けた。

「キスマークいっぱいだよ。良かったね」
「え? あ、うわっ!」
「すごいなぁ。こーんなトコにまで……」
「ちょっ! やめてくださいってば! 大佐っ! 服っ! 僕の服どこですか!?」

 まるでたった今、情事の現場に踏み込まれたかのように取り乱し、サカキに助けを求めるシグを見つめたサキは、満足そうに頷きながら振り返り、満面の笑みでVサインをして見せた。

 合図を受けたコウが、棒立ちで呆けたままのサカキの脇腹を小突く。

「行ってやれよ。ご指名だ」
「お、おう」

 我に返り、慌てて駆け寄ろうとするサカキに、サキの厳しい声が飛ぶ。

「あ、大佐! シグに触る前に口と手、ちゃんと洗ってきて!」
「なにぃ?」
「俺の血飲んだだろ。ほら、口開けろ、水だ」
「う、ごほっ」
「次、手」

 空になったアンプルを取り上げたコウは、ペットボトルを無理矢理口に押し込み半分ほどを飲み込ませると、残りの水を惜しげもなく掌に降り注いだ。口元を腕で拭おうとするのを、差し出したハンカチで阻止し、口と手を拭わせる。

「よし、いいだろう」

 さっさと行けとばかりにサカキの背中を突き飛ばし、ハンカチでアンプルを包みポケットにしまうと、サキを手招いた。

「もう大丈夫だよ」

 すっかりいつもの表情に戻ったシグを眺めながら、サキはコウの隣に寄り添った。
 すかさずその肩を抱き寄せてくるコウに、サキが疑問の視線を向ける。

「コウ?」
「……俺も少し、暴れたくなった」
「はい?」

 ふいと背けたその顔は、どこか拗ねているように見えた。

「えーっと……シグの頬っぺにキスしてたのが気に入らない……のかな?」
「……」

 無言のままで、肩を抱く手に力が篭る。
 どうやら図星のようだ。

「うーん。あれでも軽い方なんだけど……」
「わかってる」

 サキは「礎」としての力で、シグの心の、負の暴走を食い止めたのだ。
 良くやったと褒めるべきなのは百も承知であったが、やはり気分のいいものではない。

「抱きしめてやるだけじゃ、鎮まらなかったんだろ?」
「うん。自決用のアンプル、まだ持ってるなんて思ってなかったから焦った」
「まだ?」
「グリンが銃と一緒に取り上げて、博士が処分したはずなのに……」

 任務で『レプリカ』を基地の外へと連れ出す場合、所有者は万一の事態に備え、自決用のアンプルを『レプリカ』に携行させることが義務付けられている。

 サカキも当然承知しているはずだが、あの男がそれを実行するとは思えない。
 事実、サカキは実物を目にしてさえ、それがそうだとは気付いていなかったのだ。

 にもかかわらず、初めてセキエイの自宅を訪れた時、シグはそれを持っていたらしい。
 だがその時所持していたアンプルは、サキの話によればすでに処分されているという。

「中継所で新しいの貰っちゃったのかなぁ」
「誰にだ? サカキはその手の命令は一切無視する奴だぞ?」

 そもそも最初にそれを渡したのは誰なのか。
 所有者であるサカキに知られずにとなれば、対象はおのずと絞られてくる。

「誰かって見当はつくけど、なんでってのがわかんないなぁ」
「昔っから、何考えてるのかわからん奴だったからな」
「やっぱり他に居ないよねぇ」

 敢えて名前は出さずに話しているが、同じ人物を脳裏に描いているのは間違いないようだ。

「グリンの鍵もわざとらしかったしなぁ」
「シグにもあるのか?」
「確かめてみる?」

 ゲノムに細工が施されているかどうかは、身体を繋げてみなければ判らない。
 グリンの場合は、サキ自身が発情期だったからこそ許容できたのだ。
 むしろ絶対やめろと言いたいところをぐっと堪え、コウは不機嫌そうにぼそりと言った。

「それは……しなくていい」
「そう言うと思った」
「わざと聞いたのか?」
「聞かなきゃ言ってくれないだろ?」

 ついさっき、自分が口にしたのと同じセリフを引き合いに出され苦笑する。

「意味が違うだろうが」
「いいんだよ。俺は、コウに独り占めされてるって実感したいんだから」

 愛情確認が目的なのだから使い方は間違っていないと言い張るサキに、再び苦笑が漏れた。

「さてはキスマークにあてられたか?」
「うっ」

 コウの笑みから苦味が消え、柔かな微笑へと変わる。
 くすりと笑った唇が、そのままサキの首筋へと吸い付いた。

「ひゃっ!」

 舌先の湿った感触と、ちりとした痛みが行為の意味を悟らせる。

「いっ……った」
「こんなもんか?」

 一際強く吸われ、痛みに思わず声を上げると同時に、唇が離れた。

「素面でやると案外つかないもんなんだな」
「結構痛かったんだけど……」

 首筋に残されたのは小さな赤い斑点がぽつり。
 シグの肌に残された、花びらのような痕とは比べ物にならないらしい。

「もういっぺんやるか?」
「もういいよ! ……痕だけ付いてても意味ないし」
「んじゃ、こっちな」
「んんっ!?」

 真正面で抱き寄せられ、今度はがっつりと唇を塞がれた。
 どうやらシグのキスマークにあてられていたのは、コウも同じだったらしい。
 もっともサキがシグに触れたときから、コウは露骨に本音を漏らしていたのだが。

 嫉妬や独占欲というのは元来負の感情に分類され、後味のいいものではない。
 だがそこに本気の愛情が混じると、途端に甘美な密の味になる。
 鎮めなければならないはずの感情に、サキは自分の心が癒され満たされていくのを感じていた。

 閉じた瞼の奥で、サキの瞳は金色に輝いていた。
 存分に満たされ、なおも注がれる想いが溢れ、零れ落ちてゆく。
 サキの身体を通って零れたそれは、周囲の空気の色を変えた。

 カルトな儀式の声音に混じって漏れ出た邪気が消え、穏やかな気配が満ちてゆく。

 気配は、騒ぎを聞きつけ成り行きを見守っていた、セキエイとグリンの元へも届いていた。
 身なりを整え奥の部屋から現れた二人は、目にした光景に呆気に取られ、やがて破顔した。


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