お終いの街3


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 天空に煌く星々が黎明の光に呑み込まれ薄れていく中、オアシスの水辺に佇む男の影があった。

 肩口で揺れる無造作に伸びた髪と、それを押しのけるように生えた大きく尖った耳。
 重量感のある筋肉の束が、赤銅色の肌に包まれ流麗なシルエットを作り上げている。

 白み始めた空の下、徐々に露わになってゆく己の異形を水面に映し、コウは煙草に火をつけた。

「魔人降臨、てか? 自分で見るのは初めてだな」

 鋭く伸びた長い爪であやうく頬を突きそうになり、慌てて意識を指先に向ければ、ヒトと変わらぬ長さに収まった。

「伸縮自在の爪ってのは前には無かった気もするが……」

 咥え煙草で掌を空にかざし、指先を曲げ伸ばししながら、コウは昨夜の記憶を辿る。

 サキと二人、溶け合うような快感に包まれたまま眠りについた。
 喉の渇きを覚えて目覚めた時には、すでにヒトの姿はしていなかった。

 右目の奥が蠢くようなあの感覚も、理性を押しのけようとする破壊衝動も感じなかった。
 今こうして自分の異形を目の当たりにしていても、心は不思議と凪いでいた。

 短くなった煙草を地面に落とし踏み消していると、馴染みの気配を背後に感じた。

「……おはよ」

 こうなる事が判っていたのか、サキの声はどこか申し訳無さそうな響きを含んでいた。
 背中越しに届いた声に、コウは口元に小さな笑みを浮かべて振り向いた。

「よお。身体は大丈夫か?」
「や、それ俺のセリフだから……」
「俺か? 見ての通り魔人復活。当分死にそうにないぞ?」

 大仰に広げて見せた両手を腰に当て胸を張って答えるコウに、サキは引き攣った笑みだけを返す。

「そんな顔するな。こうしなきゃならんほど、俺の身体は壊れていたんだろ?」

 ゲノムがバラバラになっていたとサキは言った。理屈はわからないが、本来ひとつに入り混じっていたヒトとしてのゲノムと魔人の要素を含むゲノムを、サクヤの封印石が無理矢理分断し、魔人のゲノムのみを封じ込めていたという事らしい。

 石を填められた時の激痛を思い起こせば、妙に納得できる話であった。自分の意思でヒトであることをやめた身体に、無理矢理ヒトの皮を、まさしく皮だけを被せられたようなものだったのだろう。
 石の効力が弱まれば被せた皮の強度も落ち、やがては破れることになる。

 サキはおそらくヒトとしての肉体を維持するよりも、コウ・ヒジリとしての意識を保持する事を優先させるために、ゲノムの残量の多い魔人の肉体をベースに再構築する術を選択したのだろう。おまじないだと事も無げに告げながら、一体どれほどの力と己のゲノムを消耗したのか。

 朝日を映すサキの瞳は、常よりも金色の輝きが弱くなっていた。

「俺がこうなる事が判っていたから、同情して俺のものになってくれたのか?」
「違うっ! それ、絶対違うからっ!!」
「だったらいいさ。この身体なら、ヒトのままよりちっとは長く、お前と一緒にいられるだろうし」
「ちょっとじゃなくて、ずっとだろ! そのために、俺のゲノムで繋いだんだから!」
「え?」
「コウのゲノムに何かあってもすぐに修復できるように、予備のゲノムだってストックしたし」
「……ストックってどこに?」
「俺の中」
「ちょっと待て」

 互いのゲノムを共有し、等しい寿命を分かち合う。それはすなわち――

「予備のゲノムのストックまで含めて“おまじない”なのか?」
「そうだよ」
「お前そりゃ……“おまじない”のレベルじゃないだろう……完璧な『盟約』じゃねぇか……」
「おまじないは、おまじないなの! ヒトが何て呼んでるかなんて俺が知るわけないだろっ」

 半ば逆切れのような有様で憤るサキの表情が、辛そうに歪む。
 何度も気持ち悪くはないかと聞いてきた。縋るようにイヤではないかと確かめてきた。

 己の特異な能力が嫌悪の対象になるかもしれないという怖れは、コウ自身もよく知っていた。
 相手が大切であればあるだけ、怖れは強迫観念にも似た恐怖へと変わる。

 その恐怖を振り払い、力を行使するのにどれほどの想いと覚悟が必要だったことか。

「サキ……」

 そっと手を伸ばし、今にも泣きそうな表情で見つめるサキの頬を撫でる。
 きゅっと唇を噛み締めたサキが、倒れこむように身体を預けてきた。

「もし、おまじない……するんじゃなかったって思ってるんなら、俺……」

 コウの頭痛が激しくなった頃から、ずっと考えていた事だった。
 魔人の力の暴走を怖れるコウに、いざとなったら殺してくれと妙にすがすがしい顔で頼まれた。
 コウの望むずっと一緒にというのは、ヒトとしての身体の期限が切れる時までだと知っていた。
 幸福な死というコウの望みを知っていながら力を使うのは、自分自身の我儘でしかなかった。

 ラセンの一族の寿命は、ヒトからみれば永劫の時を生きるに等しいほどの長さがある。
 死を望むコウからその機会を奪ってしまう自分を、コウは憎むかもしれないと考えた事もある。

 けれど、どれほど恨まれようと生きていて欲しかった。たとえ生涯、憎悪の感情を向けられ、罵倒され、慰み者のような扱いを受ける事になったとしても、コウの死体を見ずにすむならそのほうがいいと、力を使う覚悟を決めた。

 言葉を続ける事が出来ずに、サキはコウの身体にしがみ付いた。
 赤銅色の肌はまだ見慣れないが、髪を撫でる掌の優しさに変わりは無かった。

「馬鹿。嫌だなんて思うわけないだろ? 上出来すぎて呆けただけだ」
「上出来……って?」
「お前のおまじない……ありゃ多分、『盟約』っつう、ラセンが結ぶ婚姻の儀式と同じものだ」
「ほえ!?」
「お前まで呆けるなよ」
「こ、婚姻って結婚のことだよね? 俺、コウの、お、お嫁さんに、なったの!?」
「男が嫁になるわきゃねぇだろう。盟約を結んだ者同士のことは『対』って呼ぶんだよ」

 意味は大して変わらないがと、どこか照れくさそうに笑うコウの表情に翳りは見えなかった。

「結婚なんて、俺、そんな……」
「『盟約』だって言ったろ? ま、確証があるわけじゃねぇけどな」

 朝日に向かって大きく伸びをしたコウは、サキに自分の知る盟約の説明をした。

 詳しい儀式のやり方は知らないが、とにかく特別だと思った相手と互いのゲノムを持ち合う事で、同じ寿命を持つことが出来るのだと。

「うわ、思いっきりおんなじ……」
「だろ? だから実は、ちょっとびびった。俺でいいのか? ってな」
「なんで?」

 本気で意味が判らないという顔をするサキに苦笑を浮かべたコウは、水辺に腰を下ろし隣にサキを誘った。胡坐をかいて座るコウの隣にちょこんと膝を抱えてサキが座る。朝日が煌く水面に映るヒトではない二人の姿は、まるでお伽噺の挿絵のようだとコウは思った。

 我ながら陳腐な思い付きだと可笑しくなったが、それはそれで悪く無いとも思う。
 世界が二人だけのものになったなら、などと横滑りしかけた思考を振り切り言葉を続けた。

「魔人の俺と『対』になっちまったら、お前を一生役目に縛り付ける事になるんじゃないかってな」

 サキを拾った時からずっと、抱き続けてきた不安な想いを口にする。

「? 元々そのために生まれたんだし、相手がひとりきりで、しかもコウなら大歓迎だよ?」
「下手すりゃ俺の人格だけなくなって、凶暴な魔人がお前の『対』になったかもしれんのに?」
「『お前は俺のものだ』って言ってもらえたから、全然平気」

 サキの一途なしたたかさに、コウは自分の精神がいかに脆弱だったかを思い知った。

「お前は……すごいな」
「へ?」
「気持ちが、というか想いの強さが、な」

 敵わないなと笑うコウに、サキは不満そうな表情を浮かべた。

「コウだってかなりのもんだと思うけど?」
「俺が?」
「普通は一緒にいたいからってだけで、村を壊滅させたりヒトをやめたりしないもん」
「……そうくるか?」
「だから俺たち、おあいこなんだと思うよ?」
「そうか……。そうなのかもな」

 サキの言葉に肯定の相槌を打ちながら、コウはやはり敵わないと思っていた。
 自分の愚かな振る舞いを、おあいこだと言ってくれた。
 胸の奥から込み上げてくる感情に、もう負い目や後ろめたさは無くなっていた。

 ただひたすらに嬉しくて愛しくて。

 思わず涙ぐんでしまった自分を誤魔化すように、コウはぺろりとサキの頬を舐めた。

「ひゃっ!?」
「ごち」

 舌を出したままでおどけるコウに、サキの頬がぷうと膨れた。
 他愛ないやりとりが無性に楽しい。

「もーっ!」
「ははっ、すまんすまん。ところでひとつ聞きたいんだが、おまじないは完了してるのか?」
「うん。あとはコウの身体が今のゲノムに馴染めば、ヒトの姿にも変身出来るようになるよ」
「……戻るんじゃないのか? 変身?」
「今までは魔人化しちゃうかもしれないヒトだったからしんどかったんだもん」
「なら今の俺は、ヒトにも化けられる魔人になったってことか?」
「うんっ!」
「しかし、魔人がデフォってことは、喧嘩っ早くなったりとか……」

 サキが気にしないのならば、自分がヒトであろうと魔人であろうと構わないが、あの理性を凌駕する破壊衝動だけは勘弁して欲しかった。

「俺『礎』だよ? そういうの鎮めるのは得意なの! ってかそれが本業なんだってば!
 でもってコウの右目はその俺のゲノム集めて作ってあるんだけど?」

 何を余計な心配をしているのかと、呆れた顔で言い放たれた。

「あ……そう、か」

 言われて改めて右目にそっと触れてみる。
 瞼の上から感じる球体の感触は、封印石の時とは違い弾力があり、眼球と変わりない。
 水面に映ったコウの右目には、光沢のある翡翠色の珠がすっぽりと収まっていた。
 視力があるわけではないが、光を感じる分だけ以前より視界が格段に明るくなっている。
 そしてなにより、目を閉じて意識を右目に向けるだけで、心が穏やかに凪いでゆくのが判る。

「すげぇ……な」

 些細な不安や疑心暗鬼などたちどころに消えてゆく。
 ゆったりとした気分で日の光を浴びるなど、一体何年ぶりだろうか。
 目を開けて天を仰げば、雲ひとつ無い空が広がっていた。
 何処までも続く蒼穹に、心も身体も軽くなってゆく。

「空でも飛びたい気分だな」

 何気なくもらした言葉だった。

「飛べば?」
「え?」
「羽、まだ出してないんでしょ? 広げて乾かさないとカビちゃうかもよ?」
「……羽?」

 サキの言葉を肯定するように、羽という単語を口にした途端、背中の辺りがむず痒くなった。
 内側から何かが背中の皮膚を突き破ろうと押し上げてくる感覚がある。

「げ……ちょ、気色悪ぃ……」
「最初だけだから、大丈夫だよ」
「……本当、だろうな? うげ……」
「あ、背中に線が入った。もうすぐ出て来るよ」
「実況せんでいい……」

 羊膜のような薄い半透明の膜に包まれた塊が、肩甲骨と背骨の間からそれぞれ左右一つずつ、どろりと背中に垂れ下がった。

「……なんか、動物の赤ちゃんが産まれる時みたいだ」
「言うなって……ぬらぬらして鳥肌立ってき……う、動かすなっ!」
「俺じゃないって。勝手に広がろうとしてんだよ」
「勘弁してくれ……」

 膜を破り現われたのは、鳥類の翼のようなものではなく、コウモリの羽に良く似たものらしい。
 サキに膜を取り除いてもらうと、ようやく自分の意思で広げられるようになった。
 水面に羽を映してその形状を確かめたコウは、安堵の息を漏らして呟いた。

「天使の羽じゃなくて助かった……」

 一気に全身の力が抜け、思わず地面にへたり込む。
 魔人化の予想はしていたが、羽が生えてくるというのは想定外だった。

「サキ……フィギュアじゃねぇんだから、オプションパーツとかつけんなよ……」

 かつて『赤の魔人』と呼ばれた時代の自分に、羽が生えていた記憶は無い。
 伸縮自在の爪といい、サキの力によってバージョンアップがなされたとしか思えなかった。

「俺がつけたんじゃないってば! コウのゲノムに入ってたの!」

 元になるゲノムがなければ組み替えはできないと言われても、今ひとつ納得できなかった。

「なんで羽のゲノムなんか……」
「コウモリっぽいけど、どっちかっていうと竜族の系統だよね。翼竜とか飛竜とかそこいらへん?」
「俺の先祖におとぎの国の住人が居たってのか?」
「せめてファンタジーって言おうよ」

 読書好きのサキらしい、前向きで夢に溢れた意見であったが、さすがにこれは受け入れ難かった。

「……その姿が一番安定する組み合わせだったんだもん……」

 がっくりと肩を落とし項垂れるコウの隣で、膝を抱えたサキが小さく呟いた。
 消えてしまいそうなほどに掠れたその声に、コウははっと顔を上げた。

 太陽が高くなり、陽射しが一気に激しさを増してきていた。
 コウはバサリと大きく羽を広げると、直射日光が当たらぬようにサキの頭上を覆ってやった。
 地面に差した羽の影に、サキがちらりと顔を上げる。

「こういう時は、便利なもんだな」
「……」
「悪かった。もう二度と、身体のことで文句は言わない」
「……俺、ごめんなさいとありがとう、どっちをコウに言えばいい?」
「にっこり笑って、ここにキスのひとつもくれれば、それでいいさ」

 コウは自分の頬を指差しウインクをしてみせた。

「……魔人のコウって、キャラ軽いんだ」
「お前、その言い草はないだ……っ!」

 あまりのサキの言い様に反論しかけたコウの頬に、ちゅっと小さなキスが届けられた。

「でも俺、こういうノリのコウも好きだよ?」
「だったら今度は、この姿のまんまで抱いてやろうか?」
「うわ、それすんごい楽しみかも。だったら早くこの仕事終わらせないとだね」
「そうだな。続きは家に帰ってからのお楽しみってな」

 笑い合う二人の頭上に影が差す。
 羽で作った日除けの下で、二人は誓いのキスをした。


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