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「……コウ、少し、苦しい」
サキの声に、コウは慌てて力を抜いた。
「すまん。ちょっと……思い出してた」
「村を……襲った時のこと?」
「ああ」
コウはぐったりとソファの背に頭を預け、溜息をついた。
疲れたように右目を押さえる仕草に、サキはようやく顔を上げた。
「目、痛むの?」
「少し、な」
いつもの事だと言いながら微笑もうとした顔が苦痛に歪む。
魔人と化した身体を無理矢理ヒトに戻された、あの瞬間の感覚が蘇る。
「くッ!」
「動かないで!」
「サ……キ?」
「そのまま、じっとしてて」
正面に回ったサキは、右目を押さえるコウの手をそっと外し、封印石に
舌を這わせた。
正確には、石と眼窩の境目に。
ぴっちりと隙間無くはまっているはずの石の縁から、何かが流れ込んでくる。
瞼に触れる舌先の温かさとは裏腹に、目薬を点した時のようなひんやりとした感触が石を包み込むと、脳を締め付けるようだった痛みが和らいでいった。
「っふ……」
思わず安堵の息を漏らしたコウは、両手を脇に落とし、身体の力を抜いた。
痛みに強張っていた首筋を、サキの手がゆっくりと揉み解す。
肌に感じる温もりと、髪から香る甘い匂いが、サキが、確かにここにいると告げていた。
トレーラーの低いエンジン音と振動が心地良い。
先ほどまでの気まずい沈黙とは違う、穏やかな静寂のひと時が、二人の間に訪れていた。
痛みはとうに治まっていたが、コウはサキのやりたいようにさせていた。
サクヤの嵌めた封印石に気にかかる事があるらしく、しきりに舐めたり
表面を爪で引っ掻いたりしている。いつの間にやらコウの両脚をまたいでソファに膝を乗り上げ、覆いかぶさるような体勢になりながら、なおも執拗に石を調べていた。
「サキ?」
「むう〜〜」
ややあって、不満そうな溜息を残してコウの膝から降りたサキは、元の場所に戻って腰を落ち着けると、意を決したようにコウに問いかけた。
「その石、長(おさ)が入れたんだよね?」
「ああ」
「元の目は? それも、長に取られたの?」
「いや……」
コウは、言葉を続けるのを躊躇ったが、サキの目は、話の続きを促していた。
真っ直ぐに向けられた翡翠色の瞳。
逸らされる事の無いその視線に、コウは、ついに観念した。
今しがた辿った記憶のままを、ぽつぽつと話し始める。
森に入った途端に自分の意識が戻った事、命の樹が朽ちていた事。
昔の知り合いに会い、「礎」の存在とその役目の内容を知った事。
「ッ!」
息を呑むサキの気配に、コウはその肩をそっと抱き寄せた。
「お前が『礎』だと知ったとき、一旦鎮まってた魔人化がまた始まったんだ」
その時に、応急処置として右目を抉られたのだと。
だが、「礎」の名を知り、丘にたどり着いた時、コウは自ら魔人となる事を望んだのだと告げた。
「どうして……」
「お前に会うために……ま、結局サクヤに邪魔されて、このざまだがな」
「違う! そうじゃなくて!」
「サキ?」
コウの話を聞きながら、サキもまた、自分の記憶を手繰り寄せていた。
唐突に役目の終わりを告げられたあの日。
目の前には焼け野原が広がっていた。
自分を取り巻きその身を貪っていた邪な気配が一斉に消えた瞬間。
サキは自分の名を呼ぶ悲しい雄叫びを聞いたような気がした。
あれはいつの事だったのか。
サクヤは、この地の魔の全てを平らげ、村を滅ぼし逃げた魔物が居ると言った。
「なんで、長が……俺が居たのに」
あの時コウに出会えていたなら……。
「礎」として、力を解放していたあの時ならば、コウの中の魔人だけを鎮めることも出来たはずだった。
だが、サキが外へ出たときには、そんな魔物は居なかった。
魔物どころか、生けるものすべての気配が絶えていたのだ。
「丘の上に、大地に蓋をするように、どでかい封印石があった。
サクヤはその石の中から出てきて、俺の右目に石を突っ込んだんだ」
「丘の上!?」
驚くサキにコウはゆっくり頷き、その丘が村人達に「礎の丘」と呼ばれていたことを告げた。
「そんな石、俺、知らない……。
丘の上なんて……あんなトコ、何も寄って来ないのに」
「……寄って来ない?」
今度はサキが頷く番だった。
「丘に登る途中で、急に傾斜がきつくなるトコあったろ?
あそこから、土地の性質が負から正に変わってるんだ。
土地が正になればそこを取り巻く大気も正に染まるから……」
「なら、お前はどこに居たんだ?」
「下」
「丘の?」
「うん」
丘の下へと通じる道など有っただろうかと首を傾げるコウに、丘へと向かう道の途中に、負の気を持つモノだけが気付くように細工された細い小道があったことを、サキが明かした。
サキが役目に就く前は、そこはただの抜け道であった事、その道を抜ければ、子供の足でも楽に、命の樹のある広場へも辿り着けた事を聞いたコウは、ようやくすべてのつじつまが合ったと、半ば呆れたように深い息を吐いた。
コウが村を離れてすぐにサキが役目に就いた為に、コウの知る命の樹への道は閉ざされてしまったのだ。休暇のたびに探し回っても、負の気を持たないヒトであるコウに、道が見つけられるはずも無かった。
コウが魔人と化した事で、皮肉にも道は開いたが、あの場所にサキが居るはずも無く、一旦ヒトに戻った事でそこから先の道は再び閉ざされ、丘の上へと導かれたのだった。
「待てよ?」
「ん?」
「なら俺は、あん時、魔人のままで暴れてりゃ、とっととお前のトコへ行けたのか?」
「うん。だから、『どうして?』って思ってさ」
「そりゃ、俺がオヤジの息子だったから……」
「だとしても、俺が鎮めるのは『魔』だけなんだよ?
俺がやれば、石なんて使わなくてもヒトに戻せたはずなのに……」
「んー……???」
「変でしょ?」
愛した男の息子だから自らの手で、というのは、あくまでもヒトの発想にすぎないとサキは言った。そもそも、コウが村を襲ったのを知りながら、一旦ヒトに戻っていたにもかかわらず、丘の上で再び魔人化するまで放置しておく事自体が有り得ないと。
「だいたいさぁ、『ラセン』のくせに、誰も対抗しなかったわけ?」
「あー……。それについては、多分、頑張ってたと思うぞ。それなりに」
現に右目を失っている。
それにおそらく、村に上がった最初の火の手は、村人自身によるものだ。
コウが“赤の魔人”と呼ばれるその赤は、炎を操るという意味ではない。
戦闘の度に、返り血で全身を染めていたから、“赤”の異名がついたのだ。
「それでもほぼ全滅!? “赤の魔人”って一体どんだけ……」
「……すまん」
「いいよ、謝んなくて。俺、別にあいつらを守ってたわけじゃないから」
吐き捨てるようなその言い方に、コウは既視感を覚えた。
コウの右目を抉ったあの青年――
彼が、今のサキと同じような顔をして、サキの役目について語っていた。
コウが切れた最初の要因でもあったその表情は、あからさまな侮蔑。
「だったらなんで『礎』になんて……」
過ぎた事を今更言っても仕方が無いと思いつつも、聞かずにはいられなかった。
「だって、そのためだけに生まれたんだもん、俺」
あまりにあっさりとした答えに、コウは言葉を失くした。
「約束……守りたかったんだけどね……」
「ッ!」
心の内を見透かしたようなサキの言葉に息を呑む。
「コウが村を離れるなんて思ってなかったから、せめて、コウが暮らす村を守ろうってそれだけで、他はどうでも良かったんだ」
役目についている間の事は、実はあまりよく覚えていないのだけれどと、
申し訳無さそうに小さく笑うサキを、コウは唇を噛み締めて抱き寄せる事しかできなかった。
「コウは、悪くないからね?」
サキは、役目に就いた事を悔いてはいないと言った。
コウが村を襲い同族を殺した事も、抗いきれなかった彼らの責任だと。
さらにはすべての咎は、長であるサクヤが負うべきだとまで言い放った。
「サキ……」
コウは改めて、魔族の本質を思い知った。
魔族は血の繋がりよりも、想いの繋がりを尊ぶ。
例え同族であってもそこに想いが通っていなければ、生死の別に何の感情も抱かない。
それはただ、弱肉強食の世界に生きる一個体でしかないのだ。
コウは自分の抱いていた罪悪感が、ただの自己憐憫でしかなかった事に気付き、自嘲の笑みを浮かべた。
(何をやってたんだか……)
しかもきっちり全滅させていたならまだしも、どうやら取りこぼしがあったらしいのだ。
あまりに間が抜けていて、本当にもう、笑うしかない。
コウの口元に薄ら笑いが浮かんだのに気付いたサキは、コウの腕から逃れ、その乾いた笑顔を見据えた。
「コウ!」
サキの呼び声に気持ちを引き戻したコウが顔を上げると、サキの顔が間近にあった。
掠めるように唇が触れ、一瞬で離れていった。
わけがわからず、まじまじとサキを見つめると、頬を優しく包まれた。
「俺は、ここに居るよ?」
「ッ!?」
笑顔と共に告げられた言葉に、突如、胸の奥が熱くなった。
込み上げてくる熱いものは留まる事を知らず、コウの涙腺を直撃した。
決壊寸前の川面のように、みるみるうちに涙があふれたかと思うと、頬に太い筋となって流れ落ちてきた。
「俺は……泣、いて、る……のか?」
「うん」
「なっ…んで……」
理性はあるものの、感情に翻弄されて状況が理解できなかった。
だが次から次へと溢れる涙を、止めたいとは思わなかった。
それが何故なのかが判らない。
「“しあわせ”噛み締めてるんじゃない?」
「!?」
心臓が、どくんと大きく鳴った様な気がした。
胸の奥がますます熱く、込み上げる感情の流れが一層激しくなった。
止まらない
止められない
止めたくない――
「……サ…キ……サキ……サキッ!!」
コウはたまらず、サキの胸に顔を埋めた。
路地裏のゴミ捨て場で拾った魔族の子供がサキだった。
その時からずっと、これは自分への罰だと思っていた。
生き人形のはずのサキと言葉を交わし、感情を芽生えさせてしまった自分。
役目の内容を思えば、それがどれほど残酷な仕打ちだった事か。
あげくにそのサキが守る村をこの手で壊し、役目を台無しにした。
役目のために生まれたサキの生きる意味を、存在価値を、この手で打ち砕いたのだ。
何も映さない虚ろな瞳で、悪夢にうなされ打ち震える細い身体を抱きしめるたびに、自分の犯した罪の重さを思い知らされた。
約束など、もう、どうでも良かった。
過去の事など、忘れたままで構わなかった。
ただ、生きていてくれたなら、それだけで充分だと、本気で思っていた。
コウの罪を知らず、想いを寄せてくれるようになったサキに心が軋んだ。
薄氷を踏むような思いで、その気持ちを受け止め、愛を囁いた。
そのサキが、「ここに居る」と言ってくれた。
すべてを知ってなお、罪ではないと、その手を差し伸べてくれた。
ふわり
優しく甘い気配がコウを包み込む。
声を殺して嗚咽を漏らすことしか出来なかったコウが、大声を上げて泣いていた。
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