時計の針が午前0時を回ったところで、サキは玄関の鍵を閉めた。
ナギから二人が店に来ると連絡が入ったのが昨夜の9時過ぎ。
飼い主との心中で生き残ってしまった『レプリカ』がいると言っていた。
あの口ぶりでは、おそらく仕事を依頼するつもりなのだろう。
サカキとの話だけならとうに帰り着いていていい時間だった。
リビングに戻り、身の置き場に困っている様子のシグに声を掛ける。
「こっちの仕事に付き合わせてるみたいだ。悪いね」
「そ、そんな。コウ様を連れ出したのは大佐の方ですから」
ソファに何度も座り直し、妙に落ち着きが無い。
「座り心地、悪い? クッションもっと持ってこようか?」
「違います! ただちょっと、こういうのに、慣れてなくて……」
サキはナギからの連絡を受けた後、シグを連れて自宅に戻っていた。
あのままセキエイ達と一緒に居ても良かったのだが、グリンの爆弾発言のおかげで一種異様な盛り上がりを見せてしまった後では、やはり少々気まずいものがあった。
「楽にしてなよ。あ! もしかして座ってるのが辛い? 後ろに何か挿れられちゃってる?」
グリンのあの勢いでは、何をされていても不思議はなかった。
風呂場から出てきたときには茹でダコのように真っ赤になってふらふらしていたのだ。
尻にローターの一つぐらい挿さっているのかもしれない。
だとしたら、この部屋まで歩いてくるのも辛かっただろう。
「だだだ大丈夫ですっ! い、今は何も入ってませんからっ!」
「“今”は?」
「はっ!?」
二人の間にしばしの沈黙が訪れた。
「……」
「……」
サキがくすりと小さく笑うと、シグは顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。
「コーヒーはやめといたほうがいいみたいだね。ココアでいい?」
「そんなっ! お、おかまいなくっ!」
「いいから、いいから」
ひらひらと手を振りながらキッチンに入ったサキは、グリンと初めて会った時と同じような矛盾した胸の痛みを感じて、苦笑いを浮かべていた。
今目の前にいるシグは、姿かたちが同じでも、コウの知るシグとは違う。
コウの愛情を疑っているわけではない。シグが気に入らないわけでもない。
けれど、昔を懐かしむような表情でシグに話しかけるコウを見るのは嫌だった。
できることなら、二人が一緒に居る場面は見たくなかった。
にもかかわらず、主のサカキが不在のうちにその目論見が露見してしまったシグの身を案じ自宅に連れ帰ってしまった。場合によっては敵対する立場になるかもしれないというのに、だ。
(俺って……もしかして、かなりのお人好しさん?)
元々負の思念を鎮める為に生み出されたサキにとって、自己の感情の優先順位はかなり低い。
これまでもコウにさんざん指摘され続けてきた事であったが、ここにきてようやく、その意味をうっすらと自覚したサキであった。
軽い自己嫌悪に陥りながらリビングに戻ると、シグはクッションを抱え、ソファを背にしてラグを敷いた床にぺったりと座り込んでいた。
お構いなくと言っていたわりには、差し出されたカップを受け取る仕草に遠慮はなかった。
「いただきます」
両手で包むようにカップを持ったシグは、嬉しそうに口をつけ、ひとくち飲み込んだ途端に黙り込み、潤んだ瞳をサキに向けた。
「え? 何? ……熱過ぎた???」
「美味しいですっ!」
「は?」
「甘くって、濃厚で……ココアって、こんなに美味しい飲み物だったんですね……」
「……」
うっとりと目を閉じて味の余韻にひたるシグに、サキは返す言葉が見つからなかった。
(い、今まで一体どんなココア飲んでたんだろう……)
そういえば夕食の時もやたらと感激の面持ちで平らげていた。
シグの日頃の食生活に対するささやかな疑問がサキの頭を巡っている間に、当のシグはココアを飲み干してしまったようで、空になったカップの底を名残惜しそうに見つめていた。
「おかわり……」
「いただきますっっ!」
「あ、うん」
掲げるように差し出されたカップを受け取ったサキは、キラキラと輝くシグの瞳を直視できずに、そそくさとキッチンへと舞い戻った。
「あ、あの目は反則だって……」
懐っこい小動物のような瞳はグリンにも共通しているが、見た目も子供のグリンと違い、自分と大差ない年恰好の相手にああいう反応をされると、どうしていいか判らなくなる。
ココアのおかわりだけでなく、作り置きしておいたクッキーを皿に盛り付けている自分に気付いたサキは、謂れの無い敗北感に襲われた。
(俺ってやっぱ、駄目過ぎかもしんない……)
壁に頭を打ち付けてしまいたい衝動にかられながら、ようやく寛いだ表情を見せるようになったシグのもとへと戻れば、サキの手にした皿の中身に瞳が一段と輝きを増したのが判る。
その表情は、尻尾でも生えていたなら、ちぎれんばかりに振っているのだろうと思わせた。
「わんこだ……」
「はい?」
「な、なんでもないっ!」
「それって、クッキーですよね?」
「食べる……よね?」
「はい!」
シグの浮かべた満面の笑みにたじろぎつつ皿をテーブルに置いたサキは、手近なクッションを手に取り自分も床に腰をおろした。
「へへっ」
「……うれしそうだね」
「そりゃ、もう! お菓子なんて、普段はめったに食べられないから」
「そうなの?」
「軍の官舎住まいだし、『レプリカ』にお茶の時間なんて無いし……」
「ふうん」
ココアとクッキーの効果だろうか。
シグの口調はいつしか打ち解けたものに変わっていた。
「それに、ダイゴは餡子のお菓子のほうが好きだし」
(――あれ?)
「今、“ ダイゴ ”って……」
「!」
「いつもは名前で呼んでるんだ?」
「あっ、や、今のは……その……ごっ、ごめんなさいっ!」
「何であやまるのさ?」
確かに主人の名前を呼び捨てにしている『レプリカ』というのは珍しいが、責めるつもりで指摘したのではなかった。
「あのでっかい大佐にそう言われてるんだろ? だったら別に……」
飼い主を呼び捨てにするペットなど言語道断だと言い切るヒトが多いのも事実だが、サカキがその手のことを気にするようには見えなかった。
むしろ近しい者は名前で呼び合うことを好むタイプに思える。
「違うんです! や、そうなんだけど、そうじゃなくて……」
しどろもどろになりながら真っ赤な顔で必死になって説明を試みるのだが、うまい言葉が出ないらしい。
「もしかして、名前を呼ぶのは二人きりの時だけとか、ベッドの中だけ、とかって事?」
「はう!」
サキの指摘にシグは頭から湯気の噴き出す音が聞こえてきそうな程赤面して固まってしまった。
「え、えーと……。じゃぁ、今のは聞かなかった事にすればいいのかな?」
「……っ!」
こくこくと頷きながら涙を浮かべるシグに感謝の眼差しで見つめられ、サキはわずかに残っていた警戒心が急速に薄れていくのを感じていた。もしこれが演技だというのなら、今すぐ役者への転職を勧めるところだ。
「あの、サキさん」
「ん? ――大丈夫、言わないよ」
どう絡んでいいのか判らず、とりあえず笑顔で答えてみる。
シグがはっと息を呑んだ。
「……」
「……シグ?」
「はっ! ご、ごめんなさいっ! つい……」
「? ――あ、俺やっぱコーヒーにするから、クッキー食べてて」
「あ!」
会話の糸口がつかめず、またもやキッチンへと逃げ込んだサキは、一向に進まない時計の針をうらめしそうに眺めて深い溜息をついた。
(早く帰ってこないかなぁ)
since2002 copyright on C.Akatuki. All rights reserved.