「お二人とも、もう帰っちゃうんですか?」
玄関を出ようとしていたコウとサキを、グリンが追いかけてきた。
新しい飼い主が二人と同じアパートに住む事になって再会したとはいえ、生活パターンの違いから顔を会わせる機会のあまりないグリンが、名残惜しそうに問う。
「うん」
「のしちまった手前、運び込むのを手伝っただけだからな。もういいだろ」
申し訳無さそうに小さく笑うサキに、シグに向けたような刺々しさは無かった。
「一緒に晩御飯、食べていってくれると思ったのに……」
「あの面子でか? まだ仕事は始まってないんだ、勘弁してくれ」
心底嫌そうにグリンの申し出を拒むコウをサキが苦笑いで宥める。
「まぁ、いきなり欠員が出る事態は避けられたんだし……」
「そういえば、さっきのサキさん迫力ありましたねー。どきどきしちゃいました」
「どきどきって……グリン?」
できれば触れて欲しくなかった話題を持ち出したグリンに、サキの笑みが引き攣った。
「確かにな。俺も驚いた」
「コ、コウまでそんな……」
「俺の不注意とはいえ、とっさにあれだけの演技でごまかしてくれるとはな」
助かった、ありがとう。と髪を撫でられたサキは何かを言いかけてそのまま口をつぐんだ。
「凛としてシグの手を払いのけたと思ったら、色っぽい仕草でコウ様に抱きついて……」
グリンはうっとりと頬を染めながら回想しはじめた。
「わざわざ言わなくていいってば! ……俺だって……あれはちょっとやり過ぎたかなって……」
「いいんじゃないか? あれだけ見せ付けておきゃ、ほいほい寄ってはこないだろうしな」
「コウ様もノリノリで抱き寄せてましたもんねーっ」
「サキの頑張りを無駄にはできんだろ? 悪ぶった挑発は慣れてるしな」
そういいながらコウは、再現でもするようにサキの腰に手を回し抱き寄せようとした。
「ちょっ、コウ!」
サキは反射的に頬を染めて身をよじる。
その様子にコウも無理強いはせず、笑いながらあっさりとサキを開放した。
「こいつの演技力ももう、限界らしい。博士にはよろしく伝えておいてくれ」
腰に回しそびれた手が、サキの背中を押して退出を促す。
グリンに小さく手を振ったサキが、ドアを開け玄関の外に出た。
続いて出ようとしたコウの背後から、野太い声で待ったがかかった。
「コウ・ヒジリ。あんたに話がある」
いつからそこにいたのか。
でかい図体の割りにはきれいに気配を消していたらしいサカキがのそりと近付いてきた。
「今か?」
「ああ」
「博士に会いに来たんだろう。いいのか?」
「そっちはシグに任せた。出られるか?場所を変えたい」
サカキは互いの相棒を抜きにしての一対一の話し合いを申し出てきた。
何かの決意を秘めたような表情からは、今日ここで断っても明日、明日駄目なら明後日と、事が実現するまでは引き下がらないという強い意志が感じられた。
「……いいだろう」
「コウっ?」
嫌な事はさっさと済ませるに限るとばかりに溜息混じりに応じたコウに、サキが驚きの声をあげた。
砂漠の基地での出来事をコウから聞いて知っているサキである。
コウの、自分から過去の古傷を抉りに行くような行動を見過ごす事など出来なかった。
開け放したドアに添えていた両手を外し、するりとコウの腰に巻きつけるように抱きついた。
「今日は、俺と居るって言ったよ! 二人で買い物に行こうって!」
サカキの位置からではコウの背中が壁になり、サキの表情は見えない。
が、その声音はコウを独占したくて駄々をこね、甘えているように聞こえるはずだ。
腰に回ったサキの手が愛撫のように動き始めたのを目にしたサカキは眉をひそめた。
サキは精一杯わがままで独占欲の強いフリをして見せながら、サカキには聞こえないよう唇の動きだけでコウにどうしてと訊いていた。
「買い物は、また今度な。なるべく早く帰ってくるから」
言い聞かせるようなセリフの合間に、コウもまた声に出さずに大丈夫だからと答える。
「でもっ……んっ!」
宥めるようにサキの頬を撫でていたコウが、そのままサキの顎を掴んで上向かせ、唇を塞いだ。背を撫でていたサキの手がシャツを掴み何かを堪えるようにしていたが、程なくして力を無くしたようにだらりと落ちた。
「夜には帰るから。一人が嫌ならここで待ってろ、迎えに来る」
コウの胸元に埋まった頭が小さく左右に揺れた。
「……イイコにしてろ。帰ったらたっぷり可愛がってやるから」
(何があったかちゃんと話すから。辛かったらまたお前に縋るから)
聞こえよがしな睦言のあとにコウはそっと囁いた。
「ホントに?」
「ああ」
「じゃ、もう一度キスして……」
サカキに見せ付けるための振りもあったが、サキは半ば本気でコウの首に腕を回した。
目の前で繰り広げられる熱い抱擁に、サカキは小さく舌打ちをして背を向けた。
「待たせたな」
やれやれといった風に横に並んだコウに、サカキが早速かみついた。
「けっ! わざとらしくベタベタしやがって。ガラにも無い事させんなよ。
あいつ、もういっぱいいっぱいだったんじゃねぇのか?」
ほお? と感心したように顔を向けてくるコウに、サカキはきまりが悪そうに頭をばりばりと掻いて答えた。
「……玄関先でのやりとりを見ちまったからな。でなきゃまんまと騙されてたトコだ」
唇の端を少し上げただけで何も答えようとしないコウに、サカキは知らず饒舌になってゆく。
「あのサキってのは、本当なら人前であんなことするようなタイプじゃないんだろ?」
人前どころか、二人きりの時でさえあんな風に抱きついてきたりキスをねだったりなどしてきたことはない。
演技だと判っていても胸の奥がざわめき、気付けば抱き寄せていた。
サカキやシグを近寄らせない為の演技だったのだろうに、自分が一番のせられていたような気がして、コウは自嘲の笑みを浮かべた。
「なんだその笑いは? 人前じゃやらないだけで二人の時はいつもあんなだってのか?」
「さあな。ま、あれは、俺にとっても貴重な体験だったよ」
「へっ、言ってろ。……ったくウチのなんてすっかり真に受けてへこんじまって……」
いつの間にやらサカキの口調から詰問の気配が消えていた。
「ウチの?」
「ん? ああ、俺が連れてる『レプリカ』だ。シグってんだ」
「ああ」
「そういや、あんた最初からシグって呼んだよな?」
「軍に居た頃の知り合いに声が似てた。そいつのあだ名がシグだった。
……ヒトだけどな」
あらかじめ用意しておいた回答を口に載せる。
黒髪が印象的な人物だったと付け加えれば、おそらく疑問は抱かない。
案の定、異議を唱える様子はなかった。
一度打ち解けた相手の言葉は素直に信用する。
この男の良いところでもあり、悪いクセというべき部分でもあった。
「で? このまま歩きながら話をするのか?」
居住区を抜けたところでコウが立ち止まって聞いた。
雑踏の中ならばそれでも構わないが、人通りの少ないこの界隈では声が響きすぎる。
「それなんだが……。あんた、密談向きのいい場所知らないか?」
「……おい」
どうやら話があるというのは本当だが、「今」というのは勢いだけで決めたらしい。
目的地があって連れ出したのだとばかり思っていたコウは、改めてサカキの大雑把な性格を思い出し、後悔していた。
「任務で立ち寄る先の周辺のリサーチぐらいしておくのが常識だろう」
「シグにやらせた」
「報告書は? 読んでないのか?」
サカキの連れているシグが、コウの知る、あのシグのデータを元に創られた『レプリカ』ならば、ガイドブック並の詳細な報告書が提出された事だろう。
「とりあえず泊まる場所と仲介屋の店の所在だけ確認した」
「……内容が細かすぎて途中で読むのに飽きただろ、お前」
無言で視線を逸らすのは肯定したのと同じ事だった。
必要最低限の情報だけを搾取して、あとは現場で臨機応変に対処するのがこの男のやり方だった。
それなりに頭も切れて策略も練れるくせに、正面突破を好む男だった。
(極秘任務や諜報活動には一番向かない奴だと報告したはずなんだが……)
コウはサカキに背を向けると胸ポケットから通信端末を取り出し短い通信文を送信した。
30秒ほどで返信が届き、内容を確認すると端末をしまい振り返ってサカキに告げた。
「……ついてこい。不手際はおまえ自身の責任だ。行き先に文句は言わせないからな」
背筋をすっと伸ばし、くるりと踵を返して歩き始めたその後姿は、かつて一声で年上の部下たちを黙らせ従えた、若き指揮官そのものであった。
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