「……サキ…ちゃん……?」
歩くデータバンクと言われた『レプリカ』の少年をコウのもとに預けてからおよそ3ヶ月。
時折店に顔を出すものの、一向に報告を寄越さないコウに焦れて乗り込んできたナギは、出迎えに出てきた見慣れたはずの少年の名を確かめてしまった。
「うん。いらっしゃい、ナギ。どうしたのさ、そんな顔して?」
そう言ってにっこりと微笑むその顔に、ナギは不覚にも見惚れた。
無言のまま玄関先に立ち尽くすナギに、サキの微笑みは苦笑に変わった。
「……? とにかく上がりなよ、コウに用事だろ? グリンも呼んだ方がいいのかな?」
「え、ええ…」
「ナギ様?」
背後に控えるライに促され、ようやくリビングへと向かったナギは、今度はコウの口から信じ難い言葉を聞くことになった。
「お邪魔するわよ」
「おう、悪かったなわざわざ足運ばせて。まぁ、座れよ。コーヒーでいいか?」
「は?」
「なんだ? 紅茶の方がいいのか?」
「コ、コーヒーお願い…」
「ああ」
未だかつて、コウがナギに対して労いの言葉をかける事など有り得なかった。
ましてや自分から飲み物を用意するなど、あってはならない事だった。
先程のサキの、いかにも魔族然とした立ち居振る舞いといい、コウの愛想のよさといい、二人の間に何かが起きた事は明白であった。
キッチンに立ったコウと入れ替わりに、サキに連れられおずおずと進み出たグリンの姿もまた、ナギを驚かせるのに充分な変貌を遂げていた。
「なんで…“成長”してるの!?」
『レプリカ』は培養槽の中で一定の年齢まで成長させ、出荷時にその成長を止められる。
なのに目の前のグリンの身長は、3ヶ月前よりも確実に伸びていた。
「『鍵』を開けた時にちょっと…ね」
「開いたの? 中身はっ!?」
「ちょっ…ナギ?」
「ねぇッ! ラセンが絡んでるんでしょッ? どうやって開けたの! アンタもあの『手』を持ってるの? この子の中には何があったのッ!?」
『鍵』を開けたと聞いた途端、ナギの形相は一変した。
サキの胸倉を掴み問い詰める切迫した表情には、鬼気迫るものがあった。
「ナギ…苦…しい…」
「答えてッ! アタシの身体はどこにあるの? 生きてるの? 元に戻せるのッ!?」
「ナギ様、落ち着いてくだ…」
「お黙りッ!」
ライの制止を振り切り、尚も執拗にサキに詰め寄るナギの肩にコウの手が触れた。
「離せよ、ナギ」
「ヒッ!」
コウの手が触れた瞬間、落雷にでもあったように身体をびくんと痙攣させたナギは、サキを放り出すと慌ててコウに向き直り、ライに背中を預けるように後退った。
「駄目なのは、相変わらずか」
「ッ……」
コウの言葉に、ナギは唇を噛み締め睨み返していた。
ナギの視線を、コウは微かな哀れみの表情と軽い溜息で受け止めた。
「いいから、座れ。…グリ! 俺の部屋から端末持ってこい」
「は、はいっ」
「サキ、大丈夫か?」
突然ナギに首を締め上げられたサキは、放り出されたことで解放された気管に一気に空気を吸い込んだせいで、床にへたり込んで激しく咳き込んでいた。
コーヒーの入ったカップをトレイごとテーブルに置いたコウは、サキを抱え起こすとナギから離れたソファに座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
自分の胸にサキの頭を抱き寄せ酸素を吸い込み過ぎないようにしてやりながら、グリンが持ってきた端末を起動し、必要なファイルを開くとナギの前に突き出した。
食い入るように画面を見つめていたナギの表情が、見る間に落胆のそれへと変わる。
データは確かに重要な機密ではあったが、ナギの望む情報は含まれてはいなかった。
「サキ。落ち着いたんなら、コーヒー淹れ直してくれるか?」
「! ……いいよ。グリンもおいで」
「え? あ、はいっ」
コウの言葉の裏に人払いの意図を察したサキは、グリンを伴って席を立った。
「悪いな。助かる」
コウの背後を通り過ぎる瞬間に掛けられた言葉にサキが小さく笑う。
二人のやり取りを見るとは無しに見ていたナギは、サキの笑顔を目にした途端、背筋に冷たいものが走るのを感じた。やはり、以前のサキとは何かが違っている。すべてを見通したような淡い笑みは、ナギの知るサキという少年が持ち得るものではなかった。
「どうした? あれが“本来の”サキだぞ」
ナギの動揺を感じたコウが口を開いた。
「…記憶、戻ったのね」
「全部って訳じゃないがな」
大したことではないというように軽く相槌を打ったコウは、ナギの前から端末を引き戻し、新たなファイルを呼び出した。
「さっき見せたのは、あの小僧の外部端末(額の石)から引っ張り出した分だ。あれはあれで俺にとっちゃビンゴだが、お前が欲しいのはこっちだろう」
再び向けられた端末の画面にあったのは、グリンの身体の詳細なゲノムであった。
「これは…」
「サキがあいつの身体から直接読み取った。どうやったかは聞くなよ。あまり解説したい光景じゃないからな」
サキと繋がり四肢を樹木の枝に変えていたグリンの姿を思い出したコウは、眉間に深いしわを寄せた。グリンの身体は、ヒトと植物の遺伝子の組み合わせで成り立っていたのだ。
「何なのよコレ。どうやったらこんな組み換えが可能になるのよ!」
「だからラセンなんだろうが」
ナギの目が研究者のそれになり、無言で画面のデータに視線を走らせる。
タイミングを計ったように、サキがコーヒーを運んできた。
「ここ、置くね」
「ああ」
「じゃ、俺部屋に戻ってるから…」
「サキちゃん!」
端末の画面から視線を外すことなくナギがサキを呼び止めた。
「…何?」
「さっきは…悪かったわ」
「うん。ごめんね、役に立てなくて」
「記憶、戻ったそうね。…大丈夫?」
ページを送るキーから指を外したナギが、顔を上げた。
顔色はあまり良くないものの、その瞳は落ち着いていた。
「え?」
「忘れたままでいたかった事まで思い出しちゃったりしてない?」
ナギの言葉に、サキは、胸の奥を見透かされたような気がしてたじろいだ。
この街に来た本当の理由。自分の役目。
叶う事は無いのだと思い知らされたあの日の約束。
自分の力を取り戻した時、すべてを思い出していた。
「なんでそんな…」
ナギもサキがラセンの一族だという事を知っていた。
『手』を使えるのかと聞いたのだ。力のことも知っているのだろう。
今まで何も言わずにきたのはサキの役目を知っていたからだとしたら。
胸の動悸が速まり、唇が乾く。
サキはごくりと唾を飲み込んだ。
ふいに背後から暖かいものに包まれた。
「過ぎたことを掘り返すな、ナギ」
コウが、サキを背中から抱きしめていた。
「コウ? 過ぎたことっ…て?」
「その様子じゃ、もうすっかり大丈夫みたいね」
サキの言葉にナギは破顔した。
「捨てられる直前の事だけじゃなくて捨てられるまでの事まで思い出しちゃったら…と思ってたんだけど」
「そんなもの、思い出す端から消してやるさ」
サキを抱きしめるコウの腕に力が篭もる。
「…そっか…。…うん。もう…大丈夫だよ」
二人の言う「忘れたままでいたかった事」が自分の危惧していたものではなかったと知ったサキは、安堵の笑みと共に頷いた。
ナギは、あの陵辱事件がサキの記憶喪失の原因だと思っていた。
コウは、記憶を封じられていたから、逃れる術を知らないままに襲われたと思っているようだ。
本当にそうなら良かったのにと思いながら、サキは沈黙を守った。
「じゃ、このデータ貰ってくわね」
「持ってくのはデータだけか? 『箱』のほうはどうするんだ?」
二人の会話にサキは我に返った。
コウの言う『箱』とはすなわちグリンの事である。
歩くデータバンクだった彼から必要な情報はすべて取り出されてしまったのだ。
今のグリンは、中身を必要としていた者にとってはただの空き箱にすぎない。
「あー…。それなんだけど…」
顔を曇らせ口ごもるナギに、サキは最悪の答えを予想した。
「ナギ? まさかグリンの事…」
「サキ、お前が口出しできる問題じゃない」
「けど!」
ナギに詰め寄ろうとするサキをコウの腕が阻む。
背後からコウに抱きしめられたままだったサキは、一層強く抱き寄せられ、身動きが取れなくなってしまった。
「サキちゃん、大丈夫よ。あの子を処分したりはしないから。パーティの時のお客の評判も上々だったし、あんた達さえいいなら連れて帰るわよ?」
「店に出すのか」
「そのつもりだったんだけど、妙な客があの子を買い取りたいって言ってきてるんでどうしようかと思ってんのよ」
気に入った『レプリカ』を客が買い取る事は別段珍しい事ではなかった。
一定期間レンタルし、そのままお買い上げとなるケースも多い。
「パーティの時の客か?」
「そうじゃないから、妙だって言ってんの! あの子が店に出たのってあの時だけなのに」
「外で会ったんじゃないの?」
「いつよ?」
「おつかいの途中とか…」
「…有り得るな」
クリスマス以降、発情期に入ってしまったサキの相手で手一杯だったコウは、何度かグリンひとりを買い出しに行かせたことがあった。
ナギの店の『しるし』があれば、昼間ならひとりで街を歩いていても安全だった。
目をつけたとしても、店に行って金さえ払えば自由に出来ると判っているのだから、ナギを敵に回してまでも無理強いしようとするような輩は、少なくとも日の高いうちは街中に出ては来ないからだ。
「会わせてみればいいだろう。素性が妙ってわけじゃないんだろ?」
「それはね。この間まで民間の研究所で遺跡の発掘調査してたらしいわ」
「してた? 今は?」
「事故で再生手術受けたらしくてリハビリ休業中。家事手伝いが欲しいんですって」
「…店で売りをやらせるより向いてるんじゃないのか? 連れてけよ」
コウに促されたサキが、グリンを呼びに部屋へと駆けて行った。
事情を聞かされたグリンは、思い当たる事はないかと聞かれて薄く頬を染めた。
その様子を見たナギの微笑みは、我が子の幸福を喜ぶ親のようであった。
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