―――“貴方のキスで、終わらせてください”―――
冗談でもなんでもなく、本当にたった一度のキスで息絶える者も居た。
廃棄処分の決定した『レプリカ』の最終処分場は、ホスピスを思わせる静謐な建物だった。
士官学校の学生は、卒業前の研修プログラムとして、軍事関連施設の業務に一定期間携わる事になっていた。
コウが初めてこの施設を訪れたのも、研修プログラムのコースのひとつとしてであった。
きっかけは些細な事であった。
バラの棘で突いてしまった指先を舐めてくれた青年の呼吸が突然停止した。
お寝みのキスをねだった少年は、二度と目を覚まさなかった。
彼らは全員処分を待つ『レプリカ』達であった。
何故そうなるのかという事は問題にならなかった。
ともかく、コウの体液が『レプリカ』を処分・解体するのに最適な特性を持つ事が認められた。
痛みや苦痛を与えず生命活動を停止させ、投与後おおむね2時間以内には分解し砂と化す。
しかも人間には何の影響も及ぼさないのである。施設への献血がコウに義務付けられた。
―――“僕は貴方の好みのタイプではありませんか?”―――
卒業後、最初に配属されたのは、砂漠に埋もれかけた基地であった。
補助要員としてコウに支給されたのは、シグという名の『レプリカ』の少年であった。
海が見たいと言っていた。オアシスに咲く白い花が好きだと笑っていた。
ベッドでの補助は必要ないからと告げたコウに、困ったように俯いていた。
基地の廃棄が決定した時、シグはコウの腕の中にいた。
機密保持のため、本部へのバックアップ送信後、施設内の端末はすべて破壊が原則だった。
文書による記録も、サンプルもすべて抹消し、何も残さない。
抹消すべきサンプルの中には、『レプリカ』も含まれていた。
◆◆◆◆◆
「老朽化して廃棄や移転の決まった基地や研究所。そんな所にばかり配属された」
グラスの中の液体を飲み干したコウは、空のグラスをサキに渡し、煙草に火を点けた。
珍しく寝室に持ち込んだウィスキーのボトルは、すでに半分ほどが空いていた。
サキは何も言わずにグラスを酒で満たし、コウに手渡した。
「止めないのか?」
「飲んでる方が、話、しやすそうだから」
「酔えるわけじゃないけどな」
苦く笑ったコウは、受け取ったグラスの中身を一息に呷った。
アルコールの酔いを感じられるのは飲み込んだ瞬間だけで、喉元を過ぎる頃にはすでに酵素は分解されている。
もともと体内に侵入してくる異物に対しての免疫力は高い方であったが、軍に所属し、強化プログラムという名目で繰り返される実験により、その能力は徹底して高められた。
酒や麻薬だけではない、生物兵器にすら分類される人体に有害な物質の全てがコウに対しては何の効力も持たなかった。
『レプリカ』に対する毒性など、実験の過程における単なる副産物に過ぎなかったのだ。
「酔いたい? ……俺、できるよ?」
「いらん」
即座に否定するコウに、サキは驚きの眼差しを向けた。
暗に記憶が戻ったと、力の使い方を思い出したと告げたつもりだった。
「…驚かないんだね」
「驚いたほうが良かったか?」
聞き返されたサキは、答えに詰まって曖昧な笑みを浮かべた。
「どう…なんだろう…」
サキ自身、記憶が戻った事に対して、特別な感情が湧いてきたわけではなかった。
むしろ忘れたままでいた方が良かったのではないかとも思う。
思い出して欲しくなかったのか、過去などどうでもいいと思っていたからなのかは判らないが、コウはこれまで、積極的にサキの記憶を呼び戻そうとはしなかったのだから。
記憶が戻って良かったな、と喜んで欲しかったわけではない。
記憶が戻った事を、当たり前のように受け止めているコウが不思議だった。
まるで最初から、そうなる事が判っていたかのように冷静だった。
「サキ?」
「あ、うん…」
ずっと一緒にいたかった。あの場所で、コウが大人になるのを見守っていたかった。
触れ合う事が叶わなくても、側に居て声を聞いていたかった。
愛しくて、愛しくて。
大人になったらずっとずっと一緒に居ようと言ってくれた。
幼い子供の他愛のない夢物語だと思っていた。思い込もうとした。
そうでなければ、役目になどつけはしない。
世界の行く末などどうでも良かった。
けれど、コウが世界のすべてになったから。
グリンの“鍵”を開けた時、自分の中の“鍵”も同時に開いた。
夢に出てきた少年が、大人の姿で目の前にいた。
「約束…迎えに行くって言ったのにな」
「え?」
サキは自分の耳を疑った。
コウは、見つけられなくてすまなかったと言ったのだ。
迎えに行けなかったから、見つけられなかったから、あんな目に合わせてしまったのだと。
「違っ…」
コウを置き去りにしたのは自分なのだ。
待てないと知っていて、何も言わなかった。
ヒトの心は移ろい易いものだから、大人になる頃にはきっと、遠い思い出になっているだろうと思っていた。そのまま忘れ去られても、コウが幸せならば、それでいいと思っていた。
「ゴミ捨て場で拾った壊れかけの魔族のガキがお前だと気付いた時、これは罰だと思った。
夢だったのかもしれないと諦めかけていたから、あんな姿で現れたんだと…」
ちゃんと探せば出会えたはずなのにと己を責めるコウの想いが痛い。
あの時別れを告げていれば、例えその場で泣かれても、これほど深く、長く、傷を負わせる事は無かった筈だった。
「そうじゃない! コウが悪いんじゃないんだ! 俺がはっきり言わなかったから…。
俺、役目があって、コウと一緒には居られないって判ってたんだ!」
サキは、コウの頬を両手で包むと、ごめんなさい、と言った。
「嬉しかったんだ…。一緒にいようって言ってくれて。
無理だって判ってたのに、俺、コウが大人になるまでに役目が終わればいいなって…」
黙っててごめんなさい。
忘れててごめんなさい。
覚えていてくれてありがとう。
見つけてくれてありがとう。
サキは呪文を唱えるように“ごめんなさい”と“ありがとう”を繰り返し、コウの首に抱きついた。
コウもまたサキに謝ろうとして、これではいつまでたってもきりが無いと気付き、黙ってサキを抱きとめた。
過去の行き違いを嘆くより、今、こうして抱き合える奇跡を喜ぼう。
サキの担う役目がなんであったのか、今は問うべき時ではないから。
世界の安寧のために、害をなす魔を鎮め封じる力を持つラセンの一族。
「ラセンの手」を持つサキの担う役目があるとするなら唯一つ。
サキの役目は終わった訳ではない。役目を果たす場が移っただけなのだ。
その「手」が断ち切るべき螺旋は、コウの血肉に溶け込み潜んでいる。
「サキ…。やっぱり酔いたい。…頼んでいいか?」
「あ、うん。じゃ…あ……えっ?」
かざそうとしたサキの手を掴んだコウは、そのままサキをベッドに押し倒した。
―――“醒めない夢を僕にください。”―――
処分が決まり詳細を伝えた『レプリカ』の少年は、自分の運命を嘆くよりも、コウが自分を抱かなかった理由に喜んだ。シグはコウに抱かれて命を終える事を望んだ。
自分もいつか、同じ願いを口にして、サキをこの手に抱くのかもしれない。
発情期に入ったサキを抱いた時、“その時”が来たのかもしれないと思った。
身体を繋ぎ、サキの中に精を注ぎ込むたびに感じた崩壊の予感は甘美な物だった。
愛する者のぬくもりに包まれ文字通り昇天するのなら、それは極上の最期だろう。
だが、そうなる前にサキが気付いた。
気付いて、傷ついて、自分を取り戻した。
金色に輝いたサキの目に、自分はどんな風に見えたのか。
自分の命に未練など無い。だが今のサキに、この命の重みに耐えることは出来ないだろう。
『レプリカ』達を、死なせるために抱いていたコウの痛みに涙したサキなのだ。
コウを壊すくらいなら、サキは自分で自分を壊してしまうだろう。
そんな事はさせない。
サキの瞳がコウを映す。眼差しは深く、静かな光を湛えていた。
コウは、サキの額から頬にかけてを手のひらで慈しむように撫で、親指で唇に触れた。
この先に続く行為を悟ったサキの頬がかすかに赤味を帯びる。
コウの顔が間近に迫った時には、瞳は熱く潤んでいた。
「酒じゃなくて、お前に酔いたい。…酔わせて…くれるか?」
since2002 copyright on C.Akatuki. All rights reserved.