お終いの街2


8章

 たっぷりとお湯を満たしたバスタブに首まで浸かり、サキは大きな溜息をついていた。
 発情期という言葉がぐるぐると頭の中で繰り返される。

 どうしようもなくコウに抱かれたかった。
 その横顔を目にするだけで胸がとくんと高鳴った。
 振り返り、笑顔を向けられれば、頬が熱くなった。
 耳元で名を呼ばれれば、身体の芯が疼いて呼吸が乱れた。

 触れたくて、触れて欲しくて。

 いつでも一番近くに居たくて、一番深いところで繋がっていたくて。
 腕も胸も唇も、コウの全てを自分だけのものにしておきたくて。

 ずっとずっとそう思ってきた。
 そして、コウも同じように思っていてくれたと判った。
 嬉しくて、ただ嬉しくて、こらえていた感情が、あふれ出して止まらなくなった。

 それがまさかこんな結果になろうとは思ってもみなかった。

「一緒のベッドで眠れるだけで嬉しいのに……」

 心は満たされているはずなのに、身体がもっとと訴える。

”俺に愛されたいと、願ってはくれないのか?”

 息が止まるほどきつく抱きしめられ、投げかけられた言葉。
 「愛してる」と告げられるよりはるかに強く切ない想いに心が震えた。
 それなのに。

「なんで、”今”なんだよ……」

 魔族の発情期については、以前診察を受けた時にナギからも聞かされた事があったが、あの時は意味が判らず、特に覚えもなかったので、詳しく確かめる事もせずに聞き流していた。

 自分では抑えようの無い身体の疼きに、これがそうなのかと思い当たった。

「なんとか、しなくちゃ……」

 バスタブから立ち上がり、シャワーの温度と水圧を調節する。
 温度は人肌に、水圧は肌を撫でる程度に。

「自分でやると、なかなか達けないんだけど……」

 先日こっそりと試みた時は、熱が篭るばかりで結局コウの負担を増やしただけであった。

 同じ過ちは繰り返すまいと思うのだが、コウの愛撫に慣れた身体は、自分の手の感触にさえ違和感を感じ、とまどう。

「なんか、違うんだよなぁ……」

 壁に背を預け、ゆったりと脚を開いて自分のものを軽く扱きながら快感のポイントを探すが、ぼんやりとしていて掴み所が無い。

 そのとき、バスルームの扉の前を人影が横切った。



◆◆◆◆◆



 コウからサキに触れることを許されたグリンは、サキの分と自分の着替えを両腕に抱え、いそいそとバスルームに戻ってきた。

 コウから頼まれたのだという事は、サキには言わないほうがいいだろう。
 では、どうやってサキを「その気」にさせればいいか。

 グリンはわくわくしながらその手順を考えていた。

 『レプリカ』であるグリンは、言ってみればその道のプロであった。大多数のヒトの好みに合わせて加虐心をそそる容姿と振る舞いをしているが、それだけで客や飼い主が満足するはずは無く、当然ながらそれ相応のベッドテクニックも身につけているのである。

「……リン。……グリン……」

 壁越しにしか聞く事の出来なかったサキのあの悩ましい声を、今から顔を見ながら聞けると思うとそれだけで身体が火照ってくる。

「グリンってば!」
「うわっ!? は、は、はいっ!」

 緩みきった口元を腕で隠すように慌てて振り返ると、バスルームの扉を細く開けたサキが、不信感をあらわにしてこちらを覗いていた。

「……ちょっと…聞きたい事があるんだけど…」
「あ、は、はい?」
「発情期の時って……どうすればいいか、知ってる?」
「……(あれ?)」
「グリンにも、発情期ってある……よね?」

 コウの話ではサキに発情期の自覚は無いということであった。しかし、どうやらサキは発情期である事を自覚しつつ、対処方法を探しあぐねているようだ。

 それならば話は簡単だった。聞かれるままに答えればいいのだ。具体的な手順を示しながら。

「ある……っていうか、僕ら『レプリカ』は年中無休で発情期みたいなものですよ?」
「え?」
「サキさん発情期なんですね? 僕、お手伝いします! そっち行っていいですか?」
「あ、う、うん」

 サキが返事をした時にはグリンはすでに服を脱ぎ終えていた。
 前を隠す事も無く扉を開けてするりと入り込むとにっこりと笑う。

「僕の知ってる方法、試してみますね」
「え、えと……俺、どうすれば……」
「座って、楽にしてください」

 サキは先程と同じように、壁に背中を預け、軽く両脚を開いて座った。
 その脚の間にグリンが嬉しそうにちょこんと座る。

「いい匂い……」

 肩口に頬を寄せ、うっとりとつぶやくグリンに、サキの表情が和らいだ。
 軽く抱き寄せ緑の髪に顔を埋めると、草原で寝転んでいるような気分になる。
 細身のグリンの身体は、サキの腕の中にすっぽりと収まるサイズで、肌も滑らかであった。
 自分よりも幾分幼い身体は柔らかく無防備で、陽だまりの草原の匂いがした。

「んー。これ気持ちいイイかも」

 サキはぬいぐるみでも抱きしめるような感覚でグリンをきゅっと抱きしめ、すりすりと頬を寄せた。

 明るい日差しを受け、森の奥から駆けて来る少年。

 時折意識の底から夢のように浮かび上がる少年の笑顔が、今また唐突に脳裏をよぎった。

 息を切らし駆け寄ってきた少年をこんな風に抱きしめた覚えは無かった。
 天気の良い日はいつも側に居たのに。大好きだったのに。
 抱きしめていたなら、きっとこんな感じだったのだろうにと思うと、ちくりと胸が痛んだ。

 髪を撫でて、頬擦りをして、キスの雨を降らせて抱きしめたなら、あの子はどうしていただろう。気持ちが悪いと怒っただろうか。くすぐったいよと言いながら、笑って許してくれたのだろうか。

「あ、あのっ……そんな風にされたら……ぼ、僕の方が……その……」
「え? ……あ! ごめんっ!」

 自分の思いにふけっていたサキは、そのままの行為をグリンにしていたらしい。
 上気した頬と潤んだ瞳で、グリンが困ったようにサキを見つめていた。

「……俺、そんなにいろいろ触ってた?」
「いえ……でも、僕は『レプリカ』だから、ちょっとの刺激でもすぐに反応するようになってて……」
「達っちゃいそうなの?」
「そ、そこまではっ! でも、その…」

 消え入りそうな声で答えながら腰の辺りをもぞもぞと動かしているその姿に、サキの身体の奥で何かがざわざわと蠢き始めた。雄としての本能的なその欲求は、まさしく発情期ならではの衝動であった。

「サキさん……触っても……いいですか?」
「あ……」

 サキが動くより早くグリンの指がサキの胸の突起に触れ、小さな舌がちろりと首筋を舐めた。
 細い指が迷うことなくサキの肌を滑り降りる。
 太ももの内側から中心へと指先が向かう頃には、そこは熱く昂ぶっているはずであった。

 だが、サキのそこはグリンの思惑を外れ、中途半端にくすぶっているだけであった。

「ごめん」

 グリンの好きにさせていたサキが、申し訳無さそうに身体を離した。

「もしかして、コウ様以外に触られるのって駄目ですか?」
「そう…なのかな? 自分で弄ってもあんまり良くならないんだ。どっか何か違う感じで……」

 困ったように、それでもグリンは悪くないのだと安心させるようにサキは苦笑していた。

「それなら、サキさんが僕を…触ってみますか? さっき気持ち良さそうでしたし」
「え! いいの?」

 今度はグリンが苦笑する番だった。



◆◆◆◆◆



「発情期、か……」

 洗いたての白いシーツがはためく屋上で、コウは煙草に火をつけた。

 発情期というのは通常の性欲とは違い、生物としての本能、すなわち生殖への欲求が最も高まる時期の事である。
 自然の摂理に背を向けたヒトと同じく魔族も性交と生殖行為は必ずしも一致しないという点では同じであったが、自然に近しい存在である魔族には、他の生物と同じく生殖を目的とする発情の時期が生命サイクルの中に残っていた。

 この時期の魔族の男は総じて雄の本能に忠実になり、日頃は受身であっても攻めに転じる者がほとんどであった。

(俺が受けてやってもいいんだが……)

 内心で呟きながらフェンスにもたれかかり、晴れ渡った空に紫煙を吐き出した。


――――”発情期ですから”――――


 コウは、かつてにこやかな微笑でそう告げて、自分を組み伏せた男を思い出していた。
 腰まで届く蒼黒の髪に金色(きん)を宿した緑色の瞳。サキと同じ一族の、長と呼ばれた男。
 常にコウの父の隣に在り、父に生涯を捧げる誓いを立てた男。

   『なんで俺ンとこに来るんだよ! 親父がいんだろーがっ!』
   『あの方に、こんな真似をするわけにはいきませんから』
   『親父は!? 知ってんのかよ! こんなっ…』
   『他所で悪さをするよりマシだとの事です』


「年に1度の貴重な長期休暇を台無しにしやがって……」

 思わず噛んだフィルターから苦みが口の中に広がる。


   『”誓い”はどうしたんだよ』
   『破ってませんよ? この身に受け入れるのはあの方だけですから』
   『……』


「発情期なら女を相手にしろってのに、興味がねぇとかぬかしやがって毎年毎年あの野郎は……」

 同族であるサキの発情期の傾向が似通ったものであろう事は容易に想像できた。

「サキ……」

 ずるずるとフェンスに寄りかかったままコンクリートの床に座り込んだコウは、新しい煙草に火をつけ、深く吸い込むと、空に向けて一息に煙を吐き出した。

「俺はいいから……楽になれ」








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