お終いの街2


6章

「んっ…んく…っはぁ…」
「もう少し飲むか?」
「ん…」

 口移しに飲ませてもらったミネラルウォーターが口の端から零れ落ちる。
 それを拭う間もなくコウの唇から次の一口が送り込まれてきた。
 挿しこまれた舌を伝い流れ込む液体がゆっくりとサキの喉を潤していく。

 聞きたいことは山ほどあった。
 あの少年の事も、隠しカメラの事も。

 抱き合う前に確かめるべきだったのかもしれない。

 抱き合ってしまった今となっては、問い質すどころか、意識を保っているのがやっとな有様だった。情事の後の余韻に包まれ、このまま眠りに落ちてしまいたいと思いながら、胸に残る不安がそれを許してはくれなかった。

「どうだ?」

 喉に手を添えて声を出してみる。

「…あ、あーあー。……うん、大丈夫みたい」

 多少掠れたままではあったが、なんとか会話が出来る程度には戻ったようだった。
 喉の調子の確認が済むと、サキはぐったりとコウの胸に身体を預けた。
 抱き寄せるようにコウの腕がサキの身体を包み込む。

「身体、流しに行くか?」
「ううん。まだ、いい。……もう少し、このままでいたい」
「そうか。だったら…っと……」

 サキを片手で抱いたまま、コウは足先で、サキが蹴り飛ばした掛け布団を器用にたぐりよせ、サキの身体をくるむように掛けた。

「冷えるぞ、掛けとけ」
「ん」
「……」
「……」

 昼間の騒動も、先ほどの情事の激しさも、夢だったのかと思うような静けさが訪れていた。
 サキの耳には自分の息遣いと、見た目より厚みのある胸板を通して聞こえるコウの力強い心臓の音だけが響いていた。

 何から聞けばいいのだろう。
 どう話せば知りたい答えが得られるのだろう。

 先に沈黙を破ったのはコウであった。

「2年……か」
「え?」
「お前がうちに来てから、もうすぐ2年だ」
「そ…う……なの?」

 最初の頃の時間の経過はよく覚えていない。

「拾ったのが一昨年のクリスマスの夜だったからな。もうすぐ2年になる」
「クリスマス……だったんだ」

 本来の宗教的な意味合いはとうに薄れているとはいえ、ヒトにとっては特別な夜だったろう。
 普段から夜は派手なイルミネーションが瞬くこの街であったが、クリスマスが近いこの時期は、街を訪れる観光客も増え、よりいっそうの賑わいを見せていた。

 色とりどりの電飾に飾られた華やかな街の裏側で、ゴミ捨て場に放り出されていた自分。
 その時の自分がどんな有様だったのか、サキ自身よくは覚えていない。
 コウも詳しく語るような事はしなかった。ただ捨てられていたから拾ったとだけ聞いていた。

「年明けからひと月以上雪が続いて……雪がやむまでずっとボケてたからな。覚えてないだろ」
「うん」

 外の白さとは裏腹に、サキには黒い闇が纏わりついていた。
 闇に呑まれそうになるたびに、大きな温かい何かが包み込んでくれていた。
 今と同じように、気付けばいつもコウの腕の中に居た。

「家事を覚えて、ようやくまともに動いて話せるようになったと思ったら、『しるし』を寄越せとごねて……」
「う゛……。それは……覚えてる……」

 世界がぬくもりを取り戻すにつれて、コウが遠くなっていったように思えたあの頃。
 頬をよぎる風は温かいのに、心の中には冷たい風が吹いていた。

「何を焦っていたんだか。慌てなくても、時期が来たら渡してやるつもりだったってのにな」
「あれは……だって……」
「判ってる」

 口ごもり拗ねたように顔を背けるサキの頭をコウの手が撫でる。

 サキにとってコウが世界のすべてだった。
 それは今も変わらない。
 今も、サキの心の中心にはコウが居る。

「おかげで、去年のクリスマスは別のプレゼントを探す羽目になったけどな」
「え?」

 初めて聞いた。

「クリスマスに拾ったから、クリスマスに『しるし』を……と思ってたんだが……」
「それって、なんか……」
「ん? 変か?」
「そうじゃなくて……」


――“恋人”に贈る記念日のプレゼントみたいだ――


 言いかけた言葉をサキは呑み込んだ。
 ヒトと魔族で、そんな事は有り得ないはずだ。
 道具として、愛玩動物として愛でることはあってもそれ以上の感情など抱くわけが無い。
 対等の立場での“愛”など、望んではいけないのだとサキは思っていた。
 同時に、それこそが自分の一番の望みであったのだと気付く。

「今年は、何か欲しい物はあるか?」
「っ!」
「ん?」
「あっ……」

 ゆっくりと梳くようにサキの髪を撫でながら尋ねてくるコウの瞳は、限りなく優しい。
 たった今気付いてしまった、一番欲しいもの。
 ねだったなら、コウは、くれるだろうか。
 ねだっても、いいのだろうか。

「……嫌な思いもさせちまったしな。何でもいいぞ」

 苦い笑いで、カメラの方を指で示す。
 ああ、と現実を思い出したサキは、薄く微笑って首を左右に振った。
 謝罪の為のプレゼントなどいらない。

「それは、いいんだ。でも、どうしてカメラなんて……」
「そんな顔して微笑ってたからだよ。目が覚めたときも、見送る時も。俺には言えない何かがあったんだと思ったから、確かめる為に置いていった。もしかしたら……とも思ってたしな」
「なんにも覚えてない訳じゃなかったんだ?」
「記憶は……無い。あれを見ても実感湧かなかったしな。ただ……」
「ただ?」
「帰るなりお前を押し倒すくらいはしてると思ってた」
「なんで? 覚えが無いのに?」
「すっきりしてたから」
「そ、そうなの???」
「ああ。気だるさが心地良いくらいにな。なのに隣にお前がいないからおかしいな、と……」
「他でしてきたからなんじゃないの?」
「それは無い」

 きっぱりと言い切ったコウの言葉に、サキの胸はとくんと小さく鳴った。

 それなら、いい。
 たとえそれが時間的な余裕がなかったというだけの理由であったとしても。
 すべてを自分に注いでくれた。
 その事実だけでサキには充分だった。

「そうなんだ……。へへっ」
「……喜ぶなよ。強姦されたようなもんだろうに……」
「俺、嫌じゃなかったから、強姦じゃないよ。えーとえーと……和姦?」
「…………」
「ホントだよ! 俺、コウになら何されたって平気だし、魔族だから身体だって丈夫だし」

 望む事を諦めているような、どこか遠い微笑みが痛々しかった。
 苦しそうに眉を寄せたコウの脳裏には、
 何でもするから嫌いにならないでと泣いていたサキの背中が浮かんでいた。

 道具でいいからと呟くサキに腹が立った。
 何よりも、そんな風に思わせてしまった自分に腹が立った。

「縛られて、犯されてもか? 公衆便所のような扱いを受けても?」

 コウの言葉に一瞬つらそうに顔をゆがめたサキであったが、次の瞬間には微笑っていた。

「……帰ってきてくれるなら。……いいよ」

 コウの胸にそっと頬を摺り寄せ、自分に言い聞かせるように呟く。

「俺は……嫌だ」
「!?」
「……俺は……そんな風にお前を抱きたくはない」

 サキの笑顔が、怖かった。
 にっこりと、でもどこか寂しそうに微笑むその顔が見覚えのある笑顔だったから。
 あの日も、こんな風に微笑っていたから。

 自分を見送る笑顔が、あの日の笑顔に近付いていると気付いた時から不安が募った。
 帰るたびに確かめずにはいられなかった。
 肌に触れるぬくもりも、耳に届く声も、幻ではないと確認したかった。
 どこへも行って欲しくなかったから、拘束した。
 生きて目の前にいると実感したくて、肉を食み、その血をすすった。

 そんなケダモノじみた自分の心を認めたくなくて、サキの言葉にすがった。
 殴られたといっては文句を言い、噛みつかれたと言っては怒るサキに救われていた。
 謝る事が出来る、償う機会が残されている事がうれしくて、記憶を手繰るのをやめた。

 あの笑顔を見るまでは。

「サキ……。そんな愛し方はしないでくれ」
「あ…愛し方……って……俺、そんな事っ!……あっ!?……んんっ!」

 強く抱きしめられ、唇をふさがれる。深い、深いキスだった。

「想うだけで、いいのか? 嫌われなければ、それで充分なのか?」

 キスの合間に耳元で問われ、顎に掛かっていた手が下に向かう。

「やっ!」
「欲しくはないのか? 俺の想いは……なくてもいいのか?」
「……っっ!?」
「俺に愛されたいと……願ってはくれないのか?」

 どれほど愛していても、サキがそれを望んでくれなければ、想いは届かない。
 想いを寄せる事だけに心を奪われていたなら、寄せられる想いに気付くはずもない。

「ちゃんと届くから……お前の声は、ちゃんと俺に聞こえているから……」






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