お終いの街2


4章

「ふう……」

 夕食後の食器洗いを済ませたサキは、溜息と共に水道の蛇口を閉めた。
 食後のコーヒーもそこそこに、コウはナギ達とどこかへ出掛けてしまっていた。
 部屋には自分と『レプリカ』の少年だけが残された。

 やはりナギの言った通り、彼もコウが飼うのだろうか。

 「飼い主」になる気はなくとも、居候ならさせてやると言うのだろうか。
 眠れぬ夜には抱き寄せて、大丈夫だと囁くのだろうか。

 彼もあの優しさとぬくもりを、手に入れるのだろうか。

 ちりちりと胸の奥でわだかまる気持ちを持て余していると、ぱたぱたという足音がして元気のいい声がキッチンに響いた。

「サキさん! お風呂の掃除終わりました!」
「あ……うん。ありがとう」
「はいっ! 次は何をすればいいですか?」

 少年は朝の失敗を繰り返すまいと、ひとつひとつサキの指示を仰ぎ忠実にこなしていた。
 サキの言葉に一喜一憂する少年の姿は、かつての自分を思い出させた。

 拾われたばかりの頃、自分も何かをひとつやり遂げるたびに、コウの次の言葉を待っていた。
 何もしなくていいと言われると不安になった。
 もういらないと言われたようで、どうしていいか判らなくなったものだった。

 だが本当に一通りの仕事は終わってしまった今となっては、何もしなくていいと言うしかなかった。
 どういう言い方をすれば不安を抱かせずにすむだろうかと言いよどんでいると、少年が先に口を開いた。

「あの……もしかして、今日の仕事はこれでおしまいですか?」

 “今日の”仕事。

 少年の言葉で、サキは自分と少年との境遇の違いに気付いた。

 “昨日”を失くしてしまった自分には“明日”の事など考えることが出来なかった。
 思い出し、振り返ることの出来る“昨日”を手にした今でも、“明日”が必ず来るという確信が持てずにいる自分とは違うのだ。

 今日が終われば明日が来る。少年にとってそれは当たり前の事なのだろう。

「そうだね。今日はもう、終わりでいいよ。ご苦労様」
「は、はいっ」

 サキから静かな微笑みと共にねぎらいの言葉を受けた少年は、感極まったような表情でサキを見つめたまま立ち尽くしている。

「え、えと…?」

「はっ! す、すみません。つい…。あ! 僕お風呂の支度してきますからサキさん入ってください!」

 頬を染めた少年はあわててバスルームへと駆けていった。

「つい…なんなんだろう……???」

 少年の態度に疑問を抱きつつ、サキは自分の部屋へ着替えを取りに向かった。
 彼の荷物も、取りあえずサキの部屋に置いてある。
 このままここで暮らすのならば、部屋の準備が整うまでは相部屋ということになりそうだった。

 予備の枕を出してベッドに並べてみる。
 一人で寝る分には充分な広さのベッドであったが、二人となると少々狭い気がしなくもない。

「あの子、寝相はいいほうかな…」

 それとも夜はどちらか一人はコウのベッドに行くのだろうか。

「あの子ばっかり呼ばれたら……ちょっと……痛いなぁ」

 コウが何も言わずに出かけてしまったおかげで、サキの思考は堂々巡りを繰り返していた。今まで感じたことのない焦げるような胸の痛みも、憂鬱さに拍車をかける原因だった。

「サキさん? お風呂の準備できましたけど…」

 サキがもう何度目かわからない深い溜息をついた時、ノックと共に少年の声がドアの向こうで聞こえた。あの様子では先に入れと言ってもきかないだろう。

 サキを職場の上司か先輩だとでも思っているらしく、ヒトに対する服従ほどではないにしろ、常に自分を下に置くような態度をとっているのだ。

 サキが返事をせずにいると、ドアの向こうで戸惑っている気配が伝わってくる。
 少年が嫌いなわけでも、疎ましいわけでもないのだ。
 素直で一所懸命な姿は好感が持てるし、ライと比べればはるかに気楽に話も出来る。

 どちらかといえば、気に入っているほうなのだと思う。

 サキは、二人分の着替えを手にすると深呼吸をしてドアを開けた。

「お待たせ。はい、キミの着替え。時間も遅いし、一緒に入ろうか」
「え……で、でも……」
「俺と一緒じゃ、嫌かな?」
「違いますっ!」

 渡された着替えを胸の前で抱きしめた少年は、ぶんぶんと勢いよく首を左右に振った。
 近くにヒトが居ないせいなのだろうか。多少の緊張は見受けられるものの、表情や仕草からは、怯えが消えていた。

 くすり、と笑って歩き出したサキの後ろを、少年は跳ねるように追いかけた。



◆◆◆◆◆



 コウのもとへ行けとナギに命じられた時、少年は死を覚悟した。
 自分の中に隠されているという何かを洗いざらい引きずり出され、空っぽにされて終わるのだと思っていた。

 だが連れてこられた場所は、淫らな責め具の溢れる部屋でも、機械だらけの実験室でもなかった。
 再会したコウも、不機嫌極まりないという態度ではあったが、嵐の夜の悪鬼のような気配はなりを潜め、一見ごく普通のヒトのように見えた。

 しかし、無言のままで向けられた視線は、味わった恐怖を思い出すには充分な冷たさで、ナギとコウの会話など耳に入らなかった。次に自分に声がかかる時が、終わりの瞬間へのカウントダウンの始まりなのだと思っていた。



――“……誰? ナギのお店に入った新しいコ?”――



 歌が、聞こえたと思った。



 最初に目に飛び込んできたのは艶やかな光沢を放つ蒼黒の髪。
 視線を上げると、虹彩に金色(きん)を宿した翡翠色の瞳に出逢った。 そして形良く尖った耳。

 胸元に揺れる銀のプレートが『しるし』だと気付いたのは、ナギが彼に自分の事を“お仲間”と紹介した時だった。

『彼がサキくん。純血種の魔族の少年で、コウ様とここで暮らしています。』

 ライの言葉を聞くまでもなく、一目で判った。いや、感じたといった方がいいかもしれない。
 自分にないすべてのものを備えた存在に、全身が反応した。

 魔族の遺伝子を模して人工的に創られた『レプリカ』には、サキのような純血種の魔族に対して、畏れや憧れといった系統の感情を抱く傾向があった。

 少年はその傾向が特に顕著に現れるタイプだったらしい。
 サキを見つめる瞳には、その時すでに恋愛感情にも似た輝きが宿っていた。



◆◆◆◆◆



「あら、二人仲良くバスタイムみたいよ」
「なんだと!?」

 住居用の部屋とは外階段の踊り場をはさんだ向かい側の、書庫として借りている部屋にコウ達は居た。
 填め込み式の書棚に囲まれた部屋の中央に置かれた机の上の端末のモニタには、嬉々としてサキの髪を洗い、背中を流す少年の姿が映し出されていた。

「……っ! あのガキ…」

 少年の白い背中には、薄っすらとではあるが、あの紋様が浮き出ていた。

「やっぱり自発的に興奮するほうが、反応速いわね」
「純血種というのは、それ程特別な存在なのでしょうか?」
「『レプリカ』にとってはそうみたいね。アンタは単なる混血種だからそういう感覚はないでしょうけど」

「もう、いいだろう! 俺はあっちに戻る。お前らも帰れ。ライ、カメラとマイクの配線全部切れ!」

 コウの指示を受たライは、ナギに確認を求めた。
 ナギが無言で頷くと、目の前のモニタには何も映らなくなった。
 不愉快だと主張するコウの背中にナギの冷酷な言葉が突き刺さる。

「今回は、サキちゃんに泣いて貰うわ」
「……鍵は閉めて帰れ」

 ナギの言葉には答えず、コウはその場を後にした。



◆◆◆◆◆



「んー。ちょっと長湯しちゃったね。喉渇かない?」
「あ! じゃぁ僕、先に行って冷たい飲み物用意しておきます!
サキさんは少し涼んでてください」

 サキがまだバスタオルを腰に巻いただけの姿でのんびりと髪を拭いているというのに、少年は手早くパジャマを身につけると、濡れた髪をろくに乾かしもせずに出て行ってしまった。

「そんなに気を遣わなくてもいいのに……」

 本当はそんな気分ではないのに、少年に優しく笑いかけている自分が後ろめたかった。
 何のためにここに来たのか、サキは少年に聞くことができないままでいた。
 コウが帰ってくれば判る事とはいえ、胸につかえたように居座る澱んだ感情は、なかなか消えてくれそうに無かった。

「はぁ……」

 ひときわ盛大についた溜息に、苦笑混じりの声が返ってきた。

「ガキのお守りは疲れたか?」
「コウ!?」

 笑って”おかえりなさい”と言いたいのに、上手く笑えない。
 喉がつかえて思った通りの言葉が出ない。
 コウの帰りを待っていたはずのに。

「お前、一気に老け込んだツラしてるぞ。大丈夫か?」
「あ、あは。俺、そんなに疲れた顔してる、かな?」

 言葉だけではなく、身体の動きまで思うようにいかない。
 顔に手を当てるだけの仕草が妙にぎくしゃくしているのが自分でも判る。

「おいおい。お前までのぼせてるのか? 一体何分風呂に浸かってたんだ?」
「お前までって…え?」
「あのガキ、キッチンで真っ赤な顔して、コップ握り締めてぶっ倒れてたぞ」
「ええ!?」

 慌てて出て行こうとするサキの腕をコウが掴んで止めた。

「水飲ませてお前のベッドに放り込んできたから、心配するな。多分朝まで起きんだろ。
行くんなら服着てから…って、お前は身体、冷えきってんじゃないか!」

「え…そう? 別に寒くないし、……平気だよ」

 コウの手を振り解いたサキは、背を向けてパジャマの上着に手を伸ばした。
 何故だか判らないが、今コウと話したくなかった。
 胸の奥の澱んだ感情がむかむかとせり上がってきて気分が悪い。
 少年の事を聞かなければと思うのに、コウの顔を見ることが出来ない。
 そのくせ全身でコウの気配を探っている自分がいる。

 話したくはない。だが話しかけて欲しい。このまま立ち去ってほしくない。

 相反する感情を抱えたサキがそっと背後の様子をうかがうと、コウの裸の胸が目の前にあった。

「コ、コウ! 何脱いでんの!?」
「はぁ? 風呂入るからに決まってんだろう」

 一日中、コウが今夜抱くのはどちらだろうなどと考え続けていたせいだろうか。
 サキの頭の中では一瞬別のシチュエーションが浮かんでしまった。
 見慣れたはずのコウの身体なのに、まともに見ることが出来ない。
 淫らな妄想が脳内を駆け巡り、サキは反射的に視線を逸らした。

 動悸が速まり、腰の辺りに邪な疼きが湧いてくる。
 このまま抱かれてしまいたい。
 こんな感覚は、初めてだった。

(もしかして……欲情するってこういう事? 裸を見ただけで!?)

 突然訪れた肉体の変化にサキは動揺を隠せなかった。
 相手の意志も確認せずに勝手に熱を持ってしまう事など今までの自分には有り得なかった。

(ど、どうしよう……。これってじっとしてれば直るのかな?)

「サキ? お前も、もう一回入り直せ。髪だってこんなに冷たく…」

 いつものようにコウの手が頬に伸び、指先が髪の生え際を梳くように流れ耳を掠めた。
 ただそれだけで、サキの背中を電流が走り抜けた。

「あっ! っ!?」

 思わず喘ぎにも似た甘い声がこぼれ、サキは慌てて口元を押さえた。

「………お前?」
「ち、違っ…俺っ…ダ、ダメッ」


 事態を察したコウがサキのバスタオルを剥ぎ取った時には、サキのペニスはすでに色付き、勃ち上がりかけていた。







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