お終いの街2


3章

 コウが帰宅してからの数日間、二人は久しぶりの穏やかな日々を満喫していた。
 しばらくはのんびりできると言ったコウの言葉通り、朝も夜も時間は優しく過ぎていった。


「ん……。あれ……。コウ?」

 いつもならすぐ隣にあるはずのコウの腕が、今朝はもうベッドから消えていた。
 サキはベッドの下に脱ぎ落としてあったパジャマの上だけを羽織ると、デスクの上の端末に目をやり時刻を確認する。

――午前七時。

 寝過ごしたわけではないようだ。

 前の晩の盛り上がり具合によっては、二人して十時過ぎまで寝ている事もある。むしろ普段より早いくらいの時刻であった。

 時刻表示の下にメッセージが書き込まれていた。

  ”客が来た。リビングにいる。”

 そっけない文章は、そのままコウの不機嫌さを表わしているようだった。

「こんな朝っぱらから来る客って、あの二人しかいないよなぁ……」

 どうやら二人きりの甘い生活は、そろそろ終わりのようだ。
 早朝から予告もなしに直接出向いて来たとなると、緊急の要件なのかもしれない。
 このまま出かけてしまう可能性も考え、サキはバスルームに駆け込むと大急ぎでシャワーを浴びた。

 朝食の支度は間に合わないかもしれないが、見送りくらいはきちんとしたかった。

 自分の部屋に戻り身支度を整えると、リビングではなくキッチンへと向かった。
 来客と言うのがサキの予想通りなら、お茶など出しているはずもない。
 案の定、来客用のカップはキッチンの食器棚におさまったままであった。

 ポットを火にかけてから、サキはリビングへと顔を出した。

「あ、サキちゃんおはよう! 朝っぱらから押しかけてごめんなさいね?」

 先に声を掛けてきたのは、思った通りの人物であった。

 金髪碧眼に女といっても通りそうな顔を持つ人間の男ナギと、常に彼に付き従う無表情な魔族の大男、ライ。

 この街でこの二人連れを知らぬ者などいないと言ってもいい程の、超の付く有名人だ。
 そしてナギはまた、サキの主治医であり、サキの知る限り、コウの仕事の依頼人でもある。

 コウはこの二人がやってくるとろくなことがないと言って疫病神のような扱いをしているが、今日はさらにもう一人、連れがいるようだった。

 ライの腰の辺りで、緑色の頭が出たり引っ込んだりしている。

「……誰? ナギのお店に入った新しいコ?」

 サキの声が聞こえたのか、緑色の頭は慌てたようにライの後ろに引っ込んだが、ライに促され、少しの間を置いてそろそろと顔をのぞかせた。

 緑色の髪に、青紫の大きな瞳。
 額には、瞳と同じ色の大きな宝石が輝いていた。
 肌の色は、生まれてから一度も太陽を浴びた事がないのではと思うほど白い。

 ナギが連れて来たのは、コウとライが回収してきた『レプリカ』の少年であった。

 むろんそんな事情をサキが知るはずもなく、自分よりも幾分幼く見える少年の緑の髪を珍しそうに眺めていた。額の宝石だけでなく、細い首には鎖の付いた首輪をつけている。
 彼に飽きた金持ちの飼い主に売られてきたのかもしれないとサキは思った。

 コウに新しい飼い主を探して来いとでも言うつもりなのだろうか。
 だが、ナギの答えはサキの予想の範囲をはるかに超えていた。

「今日からサキちゃんのお仲間よ。仲良くしてやってね」
「え?」
「おいナギ! 俺はまだいいとは言ってないだろう!」
「ちゃんと“ しつけ ”はしてあるから、大丈夫よ?」
「そういう問題じゃないだろう……。見ろ、サキが固まっちまったじゃねぇか。……サキ?」

 コウに呼ばれてサキはどうにか自分を取り戻したが、動揺は消えていなかった。
 真っ先に頭に浮かんだ疑問を、考えるよりも先に口にしてしまった。

「コウ! 俺だけじゃ足りないのっ!? 俺、毎晩あんなに頑張っ……はっ!」

 言ってしまってから、サキはギャラリーの存在を思い出し、口元を押さえて赤面した。

「…………朝っぱらからナイスなボケだな」
「あ、あ、……」
「どうりでお肌スベスベのはずよねぇ。ちゃんと”優しく”抱いてくれてるの?」

 あの嵐の夜の出来事の一部始終を観ていたナギが意味深長な問いを投げかける。

「え? ……や、優しいけどいじわるって言うか……。あ、でもでもすごく気持ちイイし。
それに俺も爪立てちゃうことあるから、お互い様っていうか……えと、えと……」

「ナギ、馬鹿な事訊くんじゃない! サキ……。お前も律儀に答えんでいいから……」
「あぅ! ごごごごめんっ。あ! お、俺、お湯わかしてたんだ。コ、コーヒーでいいよね?」
「おい、サキ」
「すぐ淹れて来るから!」

 耳の先まで真っ赤になったサキはその場にいたたまれずに、ソファの角にぶつかりながらあたふたとキッチンへ駆けていった。
 ライに何か言われたのか、『レプリカ』の少年がその後を追う。

 ナギはサキがキッチンの奥へ消えたのを見届けると、コウに小声で話しかけた。

「幸せそうじゃない。アンタもあのコも」
「ふん。自分の馬鹿さ加減が良く判ったからな」
「ただの野獣だったもんねぇ。サキちゃんもよく最後まで相手したもんだわ」

「まぁな。アバラと肩と……内臓も結構ダメージ深かったはずなのに、何も無かったと言い張りやがった。その前の傷も、おそらく同じような目にあったせいなんだろうに、何も言わねぇし……
しかもあれだけの事をされたってのに、俺に怯える様子も見せずに笑いかけてくるんだぞ? ったく、いい根性してやがる」

「アンタだって意外といい根性してるじゃない?
自分があの子に何をしたか判っても知らんぷりして抱けるなんてね。
てっきり罪悪感で禁欲生活送ってるかと思ったわ」

「抱かなきゃ、アイツは一人で泣くからな。そのほうが痛い」

 ナギがあの夜の出来事を録画していたのは、コウに頼まれていたからであった。
 記憶が途切れる自分に不安を感じたコウは、何が起こっているのかを確かめる為に、仕事を引き受ける際にカメラとマイクの設置を依頼していた。
 自分で設置しなかったのは、完全に我を忘れているようでも、もしかしたら無意識にカメラを避けるかもしれないと言う恐れがあったためだ。

 おかえりなさいと呟いたサキが安堵と至福の表情を浮かべて意識を手放した後、コウは自分の端末でナギから映像を受け取り、己の所業を知った。
 その時はナギの言うように、これ以上サキを傷つけないために、距離を置こうと考えもした。だが、最後に映し出された光景が、コウにその考えを捨てさせたのだ。

 高性能の盗聴マイクはサキがバスルームで呟いた一言を、途切れることなく捉えていた。


“俺を……嫌いにならないで……何でもするから……道具でいいから……。”



「俺を嫌いにならないで……だっけ? 健気よねぇ」
「本っ当に、最後の最後まで観てたんだな」
「当然でしょ? そういう依頼だったんだから。大体……っと」

 コウがナギの言葉を片手を上げて制した時、キッチンからサキと『レプリカ』の少年が戻ってきた。

「お、お待たせいたしました」

 震える手で、カップをテーブルに置いたのは、少年だった。
 その表情は、裁判の判決を待つ被告人のようだ。
 どうやら、カップを運んできただけでなく、コーヒーも少年が淹れたものらしい。

 コウより先にカップを手にしたナギが、一口含んだだけで、眉間にしわを寄せてカップを置いた。
 唇を硬く引き結び、こめかみに指をあてて堪えながら、苦労してその一口を飲み込んでいる。
 その様子を見ただけで味の見当はついていたが、コウは構わず口をつけた。
 やたらと苦いだけの液体が喉元を通り過ぎる。

 不味かった。例えようも無く不味かった。

「不味い」

 なんの躊躇いも無くきっぱりと言い切ったコウに、少年の顔は見る間に青ざめていく。

「何もそんなにハッキリ言うことないでしょ。……たしかに美味しいとは言い難いけど」

「す、すみませんっ! 今度はちゃんと作りますから、どうか、どうかお許し下さい!」

 必死になって謝る少年の目には涙すら浮かんでいた。

「たかがコーヒー1杯で大袈裟な奴だな。サキ、悪いが淹れなおしてくれ」

 コウが自分のカップをサキに渡そうと手を伸ばした瞬間、サキの傍らで立ち竦んでいた少年は、声にならない悲鳴を上げて、両手で自分の頭を覆うようにしてしゃがみこんでしまった。

「…………何やってんだ?」

 サキの差し出したトレイにカップを載せたコウが、訝しげに少年を見やる。

「あ……??」

 てっきり殴られると思っていた少年は、誰にもそんな素振りが無いのを見て不思議そうにサキを見上げた。

「ん? 誰もキミを怒ってなんかないよ?」

「でも、不味いって……。だから」

「コーヒーが不味いからっていちいち殴ってたら、サキなんて今頃生きてないぞ?」

「あはは。俺が初めてコーヒー淹れた時は、生物が口にしていい味じゃないって言われたからね」

 あまりフォローとは言えないような言葉を投げかけて、サキは再びキッチンへと戻っていった。
 慌てて立ち上がった少年は、ぺこりと頭を下げると仔犬のようにサキの後を追いかけて行く。

「もう懐かれてやがる……」
「妬いてんの? ま、でも今回はサキちゃんに頼んだ方が早いかも……」
「だからウチまで連れて来たのか」

 ナギは思わせぶりな笑みを浮かべると、胸ポケットから1枚のディスクを取り出した。





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