そもそも女のような顔をして艶やかに微笑むこの男こそが、すべての元凶であった。
サキがそう遠くない時期に自分の待遇に疑問を抱くかもしれないというのは、コウ自身もある程度は予想していた事だった。
この街の魔族はその年齢や種族に関わり無く、ヒトに仕えることでのみ生存が許されているのだから、サキが自分も何かヒトの役に立つ事をしなければと考えるようになるのも時間の問題だろうと思ってはいたのだ。
とはいえ(確かにそうなる可能性が高いという事実は否めないが)、何もヒトに仕える=SEXによる奉仕だけというわけではない。
それをナギが自分の店への勧誘などするから、話がややこしくなってしまったのだ。
「お前のせいでここまでこじれたんだ。これ以上話を混ぜっ返すんじゃない」
「なぁによ。アタシだけのせいじゃないでしょ。大体アンタが……」
普段はさして気にならないナギの女言葉も、こんな時には無性に腹が立つ。
「黙れ。サキに『売り』はやらせない。以上だ。判ったらとっとと帰れ」
「それじゃ、なんの解決にもなってないじゃないの」
「なるさ。要はコイツが自分の居場所とやらを自覚できりゃぁいいんだろ」
言いながらコウは立ち上がり、自分の部屋から何かを手にして戻ってくるとサキに投げ渡した。
「ほら『しるし』だ。これさえあれば、文句はないんだろう?」
サキに渡されたのは、銀色のプレートに長めの鎖がついているだけの素っ気無いものだった。
「『しるし』って……。だって、コウは俺を飼う気はないって!
だから俺……」
サキは、『しるし』というのは、特別な関係を示す証のようなものだと思っていた。
所有権を主張して、誰にも渡さないと周囲に宣言するためのアイテムを、この街では『しるし』と呼んでいるのだと思っていたのだ。
目に付いたから拾って、懐かれたからなんとなくそのまま手元に置いていた。
きっかけはそうであったとしても、今日までそれが続いているのは、自分を特別に気に入ってくれたからだと信じたかった。だからこそ、それを示す『しるし』が欲しかった。
たとえ「ペット」としてであっても、お前なら飼ってもいいと思って欲しかった。
拾われた夜、泣くことも出来ずに震えていた自分を朝まで抱きしめていてくれた腕が、誰にでも差し伸べられる、通りすがりの優しさだとは思いたくなかった。
『しるし』が欲しくて身体を売ると言った訳ではない。ナギの店の『しるし』など何の意味も無い。
働こうと思ったのは、自分の食費くらいは自分で稼いで、少しでも長く、ここに置いてもらうためだった。飼ってもらえないのなら、せめて、捨てようとも思わないという程度にはなりたいと思ったのだ。
「今だって飼い主になんてなりたかないさ。だがこうでもしないとこの話は終わりそうに無いからな」
憮然とした表情で背を向けようとするコウに、ナギがさらに言い募る。
「だ・か・ら! このコが欲しいのはそんな形だけのモノじゃないって言ってるでしょ!
本当は『しるし』なんて無くたってアンタ……が……」
まずいと思ったときにはもう、コウの堪忍袋の尾は切れた後だった。
「失せろと言ったのが聞こえなかったのか?」
肩越しにちらりとナギを見る。
何も映さない石の右目にうっすらと赤い光が滲んで消えた。
ナギはその一瞬の気配の変化に息を呑んだ。
「……アンタ……『封』が……」
コウの身体を取り巻くように殺気に満ちた影が揺れる。
影につられるようにコウがゆっくりと振り返った。
「ナギ様、帰りましょう。コウ様、失礼いたします」
ライがナギを庇うようにコウとの間に立ちはだかった。
「ちょっ、ライ!」
「出すぎた真似をして申し訳ありません。ですが、今日のところは、もう……」
ナギの肩を押すようにして玄関へと向かおうとするライの手が、かすかに震えていた。
魔族の血をもつライにとってコウの発する殺気は精神攻撃にも等しく、長く受ければ相応のダメージを負うと判っていた。ヒトであっても、心根の弱い者ならば、悪夢にうなされるくらいの影響は受ける。ナギならば大丈夫だという思いはあったが、影響を受けずに済むならば、それに越した事は無い。
主を守る為にダメージを受けることを承知で自分の背を盾とし、苦痛を堪えて穏やかに退室を促す従者の姿にナギが折れた。
「……判ったわよ。それじゃ、サキちゃんまたね!
言いたいことはちゃんと言わなきゃ伝わらないわよ!」
サキへの激励と共にコウに対する叱責の意味も込めた言葉を残して、ナギはライに促されるまま部屋を出て行った。
「……コウ……?」
リビングの出口を睨み付けたまま立ち尽くすコウに、サキはそっと声を掛けた。
コウはその声にぎくりと身をすくませ、慌てて右目を抑えつけた。
(サキの前で俺は……。こんなに、脆くなっていたのか……)
「変わりかけた」自分を見たサキは何を感じただろうか。
コウは振り返ることも呼びかけに答えることも出来なかった。
サキの表情を確かめるのが怖かった。
「コウ? 目……痛いの?」
いつもの真っ直ぐな眼差しが下から覗き込んできた。
胸の前で右手にしっかりと『しるし』を握り締めたまま、空いている左手を右目を抑えたままのコウの手に重ねようと差し伸べてくる。
「……っ!」
「あっ……ご、ごめん! 痛かった? 大丈夫?」
反射的に身を引こうとしたコウに、サキは申し訳なさそうに手を引っ込めながら謝った。
その表情にコウの恐れていた感情は表われてはいなかった。
(気付かなか……った? そんなはずは……)
そういえば、初めて右目を見せた時もサキはあまり驚いた様子は見せなかった。
疑問も恐怖も持たず、目の前の事実をありのままに受け入れていたようだった。
今も、そうだというのだろうか。
あの、日頃冷静なライでさえ、逃げるようにして帰って行ったというのに。
「コウ? 大丈夫なの? 顔、真っ青だよ?」
「あ……」
「コウ!」
中途半端な重心の傾け方をしたせいでバランスを崩し、足元がふらついた。
支えようとしたサキもろとも床にしりもちをつくように座り込む。
ふわり
やわらかな空気が全身を包んだかと思うと、無理やり押し込めていた影が、なんの抵抗もせず、潮が引くように意識の底へと還っていった。
気がつけば、腕の中にサキがいた。
(お前……“力”が……)
サキの様子に変わったところはない。意識して力を使ったのではないのだろう。
魔を封じる一族の血が、無意識にコウの中に潜む「気配」に反応したというところか。
「……?」
「いや……。ちょっと目眩がしただけだ。驚かせて悪かった」
「でもまだ、顔色悪いよ? 石の色は戻ったみたいだけど……」
「―――!」
(それでも、気遣ってくれるのか)
コウの両腕が、サキの背に回される。
サキの細い身体はすっぽりとその腕の中におさまり、抱きすくめられる格好になった。
「コ、コウ……?」
サキの鼓動は一気に激しくなり、頬の辺りから耳の先まで熱が走り抜けた。
「少しだけ……このままでいてくれ」
顔を上げようとすると頭を肩に押し付けるように抱きなおされ、コウがどんな表情をしているのか、サキは見ることが出来なかった。
早鐘のように脈打つ鼓動をコウに気付かれないことを祈りながら、サキは身体の力を抜いた。
since2002 copyright on C.Akatuki. All rights reserved.