「お湯、沸いてますよ」
「あ……」
ライの言葉にサキは、弾かれたようにガスのスイッチを止め、溜息をついた。のろのろと、それでも正確な手順でフィルターをセットし、挽きたての豆を人数分入れるとゆっくりとお湯を注ぐ。
心と体がばらばらに動いているような奇妙な感覚だった。
「コウ様に、お叱りでも受けたんですか?」
「お叱りって、別に。俺、コウに飼われてるわけじゃないから」
「『しるし』を頂いていないというだけで、あの方の保護下にあるには違いないでしょう?」
「そうかもしれないけど。コウは俺じゃなくてもそうしてただろうし」
「それがどうかしたんですか?」
サキは、ライのこういうところが苦手だった。どうしてだか、話が通じないと感じてしまうのだ。
同じ言語を話しているはずなのに、それぞれの言葉の解釈が違うとでも言えばいいのだろうか。根本的な価値観が違っているようだった。
「アンタには判らないよ。ナギからそんな立派な『しるし』もらってるアンタには」
ライの耳には金色の耳飾りが輝いていた。ナギの髪と同じ色の耳飾り。
「ナギ様の店に勤めるようになれば、君も頂けますよ」
「え……? アンタだけの『しるし』じゃないの?」
「店にいる者達は皆同じ物を身につけていますよ? そのための『しるし』ですから」
「アンタは特別なんだと思ってた。いつも一緒にいるし」
「それが私の役目なだけです。役目ごとに『しるし』を変える必要などないでしょう?」
ライの言葉はサキの予期せぬものであった。
ナギが飼っているのはライ一人だけで、店にいるのは皆いわゆる従業員で、それぞれ別に飼い主がいるのだとばかり思っていたのだ。
この街の魔族をとりまく現実をまだよく知らないサキは、誰かを『飼う』というのは特別なことなのだと思っていた。
「一人で何人も飼えるものなのか? 大事にしたいから飼うんじゃないのか?」
「? ……言っている意味が判りませんが」
「……」
「サキ君?」
フィルターから最後の滴が落ちた。
サキは無言のままコーヒーをカップに注ぎ分けると、トレイに載せてキッチンを出て行った。
考えがまとまらないままリビングに入ると、コウの視線がサキに向いた。
どうやらナギに何か無理難題をふっかけられたらしい。珍しく困惑の表情を見せていた。
「お待たせ。パイも焼いたのあるけど……」
「出さんでいい。ナギ、それ飲んだらとっとと帰れ」
「俺、ナギに仕事の話聞きたいんだけど」
「そんな必要はないと言ってるだろう。大体身体を売るってのがどういう事か判ってんのか?」
「金貰ってSEXの相手するんだろ。知ってるよそれくらい」
「相手を選べるわけじゃないんだぞ。何をされても文句は言えないんだぞ」
「俺、それ以外のSEXの仕方なんて知らないから」
「……っ!」
恨めしげに向けられた視線が痛い。
吐き捨てるような言葉は、サキ自身の境遇を語ると同時に、コウを責めるような響きが込められていた。
サキがコウと暮らし始めてから3ヶ月が過ぎようとしていたが、これまでコウがサキを抱いたことは一度もなかった。悪夢に怯えるサキを宥めるために一緒のベッドで添い寝してやったことはあっても、その肌に愛撫の手が伸びたことはなかったのである。
ナギがけしかける以前にも、どうして抱かないのかと聞かれたことがあった。
SEXの相手をさせるために拾ったのではないと答えたコウであったが、その言葉をサキはどう受け止めていたのだろうか。
「居候でいるのがそんなに不満なら、いっそナギの店の個人寮にでも行くか? あそこは家賃はタダだが、光熱費関係は個人払いだからな。そういう風に暮らしたいんだろ?」
「違っ! そんな事思ってない! 俺、コウと離れるなんて嫌だ。
一緒にいたいから、迷惑かけたくないから……だから……」
「それならどうして仕事に出るなんて言い出したんだ。しかも『売り』をやるなんて」
食事の支度は当番制で、自分の部屋の掃除は自分でする。
それ以外の場所の掃除や洗濯は、暇を見て天気のいい日に二人でやっていた。
コウにしてみれば、それは共同生活における当たり前のルールであったのだが、サキにとっては「お前には任せられない」と言われているようなものだったのだろうか。
「俺、役立たずだから。身体売って稼ぐくらいしかできないじゃないか」
「誰が・いつ、そんな事をお前に言った? 俺は言ってないぞ」
「だって。服とか全部コウが買ってくれて……。食費だってかかるのに……
俺、コウに飼われてるわけじゃないのに、お金、いっぱい遣わせてるから」
「だからその分外で働いて返すってのか。身体を売って? そんな金、俺は受け取らんぞ。
第一、俺は別に金に困ってるわけじゃない。自分の金を自分で好きに遣ってるだけだ」
どう言えば判ってもらえるのだろうか。独りではないという事の価値を。
ゴミ捨て場で見つけた時は、確かに長居をさせるつもりなどなかった。
簡単な手当てをし、食事をさせたら追い出す気でいたことを否定はしない。
だが意識が戻り、真っ直ぐに自分を見つめてきた翡翠色の瞳を見た時、気付いたのだ。
気付いて、そして、思ってしまったのだ。
遠い昔、果たすことのできなかったあの『約束』を、今度こそ、果たすことができるかもしれない、と……
独りよがりの想いを、記憶を失くしたサキに押し付けるつもりは無かった。
心と身体の傷が癒えたら、サキ自身に選ばせるつもりだった。
傷が癒えてもこの街に居たいとサキが言ったなら、その時には、御守り代わりに『しるし』を渡してやるのもいいだろうと思っていた。
『しるし』を持っていないからと焦る必要など何も無いのだ。
そんなものが無くても大丈夫なように、こうしていつでも自分が側にいるのだから。
なのに何故――
「そんなに今の生活が不満か? 俺との暮らしは、そんなに窮屈なのか?」
「え?」
「仕事をして、ナギの店の『しるし』を貰って。そうすれば、お前は俺がいなくても自由に出歩けるからな。自分の稼ぎで買い物もできるしな」
「……何、それ……。コウがいなくても……って、なんだよ、それ」
思いもよらないコウの言葉にサキの顔色が変わる。
「だって、『俺』は受け取ってくれなかったじゃないか。そんなつもりじゃないって。
そしたら……他所に売って金に換えてくるしかないじゃないか……。
料理とか、家の中の事とか上手くできるようになれば少しは返せるかもと思って頑張ったけど、コウのほうがずっと上手いし」
家政婦も夜の相手もいらないというのなら、自分は一体何のためにここに居るのか。
家の中で役に立たないのなら、外で働いて金を稼ごうと考えることの何がいけないのだろう。
魔族の自分が金を稼ごうと思ったら、身体を売る以外に、どんな手段があるというのか。
涙で潤んだサキの瞳が、咎めるようにコウに向けられていた。
「あのな」
「はいはい。ちょっとストップ」
それまで黙って成り行きを眺めていたナギが、突然話に割って入ってきた。
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