「あ……。来た」
のんびりと古い雑誌を眺めていたサキが、憂鬱そうにソファから立ち上がる。
「インスタントでいいぞ。あいつらにわざわざ豆から挽いたコーヒーなんぞ淹れた日にゃ、夜まで居座るからな」
「分けて淹れる方が面倒だって……。自分は絶対インスタントなんて飲まないくせに」
眇めた眼で言い返されると、その通りだけにコウは二の句が告げなかった。ふい、と視線を逸らしたサキが、空のカップを両手に持ってキッチンに消えるのと入れ替わりに二人の男は現れた。
「ハーイ♪ 元気してた?」
「失礼します。たびたび申し訳ありません」
当たり前のように部屋に上がりこみ悠々とソファに腰を落ち着けるヒトと、礼儀正しいがどこか冷たい印象を与える魔族の従者。
ヒトでありながら魔族等の生態に詳しく、魔族相手の医師としての看板を掲げているナギと、その助手兼ボディガード兼愛人のライ。
この街でこの二人に逆らう輩はほとんど存在しない。
政府の定めた領主とは別の意味合いで、この街を取り仕切っているのがナギなのである。
医師というのは看板のひとつにすぎない。実態はこの街の娼館の総元締めと言ってもいい。
自身でもその手の店をひとつ持っている。
会員制のその店は、「商品」の質の高さで最高級にランクされていた。
サキを拾った時、念のためにと呼び出したのがいけなかった。一目見てサキを気に入ったらしいナギは、それ以来定期健診の名目で毎週のように押しかけてくるのだ。
「なんか、サキちゃんご機嫌ナナメなんじゃない?」
「誰のせいだと思ってる。余計な事吹き込みやがって……」
「なに? アンタまだ『飼う気はない』って渋ってんの?」
「当たり前だ。俺はあいつをペット扱いする気はない」
事の起こりは1週間前のカウンセリングが原因だった。
初めのうちこそ抗体の検査や脳波の測定などを行ってはいたものの、これといった異状は見当たらず、記憶が欠落している事による日常生活への支障がないと判断すると、ナギはそれらの検査をあっさりと打ち切り、カウンセリング中心の診療に切り替えた。
そこまではいい。
自分が何者かも判らず、大勢の男たちに受けた陵辱の記憶しか持たないサキにとって、定期的なカウンセリングというのは効果的な治療であろう。実際、突然あの瞬間を思い出してパニックを起こすということは今ではほとんどなくなっていた。
だが、そのカウンセリングの最中に、サキが、自分はコウに飼われているのではなく居候なのだと言うと、居候なら自分の食い扶持くらいは自分で稼ぐものだと言い出し、あげくの果てに、自分の店に専属で勤めないかと勧誘したのだ。さらには、SEXに対する嫌悪や恐怖を打ち消すには、SEXによる真の快感を知ることが最善だなどともっともらしく言い募り、サキの歓心をかったのである。
その結果。
ナギの言葉を真に受けたサキは早速その日の夜に、仕事に出るからSEXの快感を教えてくれと、コウの部屋を訪れたのだった。
驚いたコウが事の成り行きを聞きだし、その必要はないと自分の部屋へと追い返したのだが、納得できないサキは事あるごとに居候なのだからと言い出し、その度にコウが説得を繰り返すという日々が続いていた。
「お前が教えた『居候の定義』のおかげで、アイツは身体を売るとか言い出したんだぞ? おまけに仕事に差し支えるからってんで、俺にSEXの快感ってやつを教えてくれとまで……」
あんな目にあったくせにとぼやくコウに、ナギは半ば呆れていた。
そもそもコウが拾うだけ拾って、手を出すわけでもなく放っておくからこういう事になったのだ。
「いいじゃない。ヤる事ヤって、もったいないから俺が飼うって言えば安心するんだから」
「なんなんだ、その安心するってのは」
「アンタ、あのコが今、どれだけ不安定な精神状態なのか判ってないの!?」
「居候って立場が気に食わないらしいってのは判るが、ペット扱いするよりマシだろう」
「それよ! あのコにとって居候ってのは『とりあえず置いてもらってる』状態でしかないの。いつアンタに追い出されるんだろうってあのコは怯えてるのよ?」
「別に追い出す気はないんだが」
「アンタあのコを拾ってきた時、聞きたいことがあるなら今のうちだって言ったんでしょ?そのあとで必要ないからお前を飼うつもりはないって」
確かにあの時はそう言った。
だが、あれは誰かを飼っているのかと聞かれたからそう答えたにすぎない。
他の連中のように、サキを単なる性欲処理の道具として扱う気はなかったから、「飼う」必要はないと言ったつもりだった。
今のうちだと言ったのは、あとからいちいち答えるのが面倒だと思っただけだ。
「俺は何も気にせずここに居ていいと言ったつもりなんだが」
「全っ然通じてないわよ、それ」
「そうなのか?」
「あのコにとって『飼われる』ってのは、必要とされてるって意味なのよ。アンタ、あのコにとって自分がどれだけ大きな存在なのか自覚してんの?あのコがすがれるのはアンタだけなのよ?」
「単に知り合いがいないからだろう、それは。慣れればそのうちどうにかなるもんじゃないのか?」
「自分の居場所も実感できてないのに、どうやって慣れるっていうのよ」
コウは、ナギの言葉の意味がよく判らなかった。
サキの居場所ならここにある。
衣食住に不自由することもなく、SEXを強要されるわけでもない。
対等の立場でいることに何の不満があるというのか。
この街で暮らしている以上、『しるし』を持たないことの不安はわからなくもない。
そのせいで、もしまたあんな目に遭ったらとでも思っているのだろう。
だが、所詮は迷子札のようなものでしかないと、コウは考えていた。
自分と共に行動していれば、『しるし』など持たなくても襲われる心配はないのだから。
『しるし』を渡すことでサキの不安がやわらぐのなら、そうしてやってもいいかと考えた事もある。
しかし、そうする事でサキが、自分の意思よりもコウの意思を優先するようになってしまうことを、コウは恐れていたのだった。
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