たちこめる白い靄。遠くから一人の少年をとりまいているいくつもの影。
目の前には大きな洞窟が、そこだけ闇に切り取られたようにぽっかりと口を開けていた。
少年は自分が行くのはあの闇の奥だということは理解していたが、恐怖は感じていなかった。
闇の入り口へと踏み出した時、背後の影が二つに割れた。
振り返ると、二つの人影がこちらに近づいてくるのが見えた。
蒼にも見える長い黒髪をゆるく束ねた長身の青年と、均整の取れた大柄の体躯が王者の風格を漂わせている、長髪の青年よりはやや年かさの男性。
『行くのですね』
『はい。それが俺の生まれた理由ですから』
どこか哀しそうに問う青年に、少年ははっきりと答えていた。
『いつか戻る日のために、お前に名を与えよう』
年かさの男性の声はその風貌にふさわしい、低く落ち着きのあるものだった。
男性の言葉に周囲にざわめきが起きる。それを片手で制した青年が少年のそばに歩み寄り、膝を落として目線を合わせてきた。翡翠色の瞳の中に金色の光が宿っているのが見えた。
『………のサと、……のキ。私たちの名前からひと文字づつを貴方に贈りましょう』
『サキ。それがお前の名だ』
『俺の……名前……』
年かさの男性の手がふわりと少年の頬にのばされた。
大きくて暖かい、すべてを委ねたくなるような感触だった。
『すべてを失くす運命であっても、名は残りますから』
『今の私達がお前に持たせてやれるのは、それだけだ。許せよ』
『ありがとうございます。サ……様、…キ様。それじゃ俺、行きます』
ニッコリと二人に微笑い掛けた少年は、真っ直ぐに闇へと呑み込まれていった。
◆◆◆◆◆
「……キ……? おい。サキ!」
「……」
目の前にあるのは薄茶の瞳。周囲を満たすのは窓から差し込む太陽の光。
自分を呼ぶ声に、唐突に意識が覚醒する。
「聞こえてるか? サキ?」
「あ……。コ、ウ……さん?」
コウは頷くと、サキの身体をゆっくりと起こしてやった。枕をクッション代わりに背中にあてて、楽に寄りかかれるようにしてやる。
「どうして……。『サキ』って……」
「お前が自分でそう言ったんだぞ。頭に“多分”ってのがついてたが……覚えてないか?」
金の光を携えた翡翠色の瞳が、記憶を辿るように宙を彷徨う。
ふいに全身が悪寒に襲われ思わず叫びそうになる。
と、ふわりと伸びてきた大きな手のひらが頬に触れた。
「“それ”は思い出さなくてもいい」
「……コウさん……」
「俺のことはコウでいい。お前はサキ、でいいんだな?」
「……うん」
「あとは?」
「え?」
「誰かに飼われてたわけじゃなさそうだしな。どっから来た?」
頬に伝わるぬくもりが、蘇りかけた恐怖を追い払ってくれる。
自分がサキという名であることには確信を持っていた。だがそれ以外に覚えているのは、あの悪夢のような出来事の瞬間だけだった。
「俺……」
何も思い出せなかった。
自分はどこから来たのか。どこへ行こうとしていたのか。
「まぁいい。名前が判ってりゃ別に不自由することもないだろう。言葉まで忘れたわけじゃないみたいだしな。お前の方から聞きたいことはないのか? 今のうちだぞ」
呆然として自分の手のひらを見つめるサキの姿に、コウはそれ以上の追求をやめた。
「あ…。えっと…。俺、どうしてここに?」
“今のうち”というコウの言葉に不安を感じながらも、サキは目覚めてからずっと抱いていた疑問を真っ先に口にした。
「今更な質問だが……。ゴミ捨て場に落ちてたから拾ってきた。野良の魔族のガキなんざ放っておいても良かったんだが、昔の知り合いにお前と同族の奴がいるんでなんとなく、な」
「野良の魔族って…」
「……この街じゃ、飼い主のいない魔族には何してもいいって暗黙のルールがあるんだよ。他所はともかく、この街でまともな暮らしがしたけりゃヒトに飼われるしかないって訳だ」
もっともその暮らしというのも、結局は飼い主の心根次第で雲泥の違いがあるのだが。
「俺って魔族なの? じゃぁ、コウ……は? ヒト、なの? 飼われるって何? 野良ってどうして判るの?」
サキは無知な幼子がそうするように、矢継ぎ早に問いかけてきた。
「あ〜。一度にいくつも聞くなよ。順番に答えるとだな、お前は魔族の子だ。それも純血種っていう混じりっけなしの純粋な魔族。で、俺は一応ヒトだ。多少訳ありではあるがな」
そういうとコウは前髪を無造作に掻き上げた。
そこに現れたのは、右の瞼の上から頬にかけて走る2本の傷跡。開かれた瞼の奥に眼球は無く、代わりにそこに填まっていたのは、義眼というにはグロテスク過ぎる緑色の石だった。
「こんなナリでも世間ではヒトってことになってる。怖いか?」
だがサキは、驚いたように目を見開きはしたものの怯える様子はなかった。ふるふると首を横に振ってコウの問いへの答えにする。
「そうか。じゃ、質問の続きだ。飼われるってのはまぁ……そのまんまの意味なんだが」
愛玩物、もしくは奴隷。
野良との違いといっても街中でいきなり犯されることがないというだけで、その扱いは大差ない。
相手が不特定多数の見知らぬヒトなのか、エサをくれるご主人様なのかというだけの話なのだ。
この街に生きる魔族の多くはヒトの満たされない欲望のはけ口にされていたが、さすがにそれを今、ありのままに告げるのはためらわれた。
「飼い主ってヒトがいれば、あんな目に遭わなくて済むって事?」
「まぁ、そういうことだ」
コウは言葉を濁して答えた。街へ出て眺めてみれば判ることだ。
「飼われてるってどうして判るの?」
「『しるし』になるものを身に付けてるんだ。首輪だったり腕輪だったり……。金持ちに飼われてる奴なんかは額に宝石埋め込んでたりとかな。『しるし』には飼い主の名前とIDが刻印されてて、そいつを見ればどこの誰が飼い主かが判る様になってる」
「コウも誰かの飼い主なの?」
誰も飼っていないなら。
サキはもしやの期待を込めて答えを待った。
「いいや」
「あ、じゃぁ」
「自分の事は自分でするしな。今のところ誰かの飼い主になる気はない」
あっさりと告げられた言葉に、サキの表情は見る間に曇り、強張ったものに変わる。
ならば、自分はどうすればいいのだろう。行くあてなどどこにもない。
そして何より、このぬくもりを手離したくない。側に居たい。
おそらくは初対面の相手だというのに、サキはコウの手にすべてを委ねてもいいと感じていた。どこか懐かしい匂いのするコウの腕に、いつまでも抱かれていたいと思ったのだった。
「……」
「だからって、今すぐお前を追い出したりはしないから安心しろ」
俯いてしまったサキの頭をコウの大きな手がくしゃくしゃと撫でた。
「お前をペット扱いする気はないが、居候ならさせてやるよ」
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