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「よりによって『snow』なんて……」
犬違いを指摘できぬまま三枝を見送るしかなかった南雲は、コーヒーカップを片付けながら眉根を寄せてため息をついていた。
「『snow』がどうしたって? 奴ならこの前のサバトでついに死んだって聞いたぞ?」
「っ! 桂梧さん!?」
この場に居る筈の無い恋人の声に、南雲の声が裏返る。
「鷹斗は? もう帰ったのか? 今日だろ、待望のわんことのご対面は」
桜 桂梧(さくら・けいご)。
南雲の恋人である彼は、三枝とも大学時代の同期にあたる知己である。
本人は三枝の親友であると思っているが、三枝が同じ思いでいるかは定かではない。
子供の頃から体格に恵まれ、柔の道を極めんとしていたが、高校時代に近所の子供をかばって交通事故に遭い、現役を退いた。その時治療に当たった医師との出会いがその後の彼の進路を決定付け、現在は整形外科医として個人医院を開業するに至っていた。
南雲との出会いは古く、大学病院で研修医をしていた頃に遡る。夜間の救急で運び込まれた南雲の、明らかに性的な行為で負ったと見られる怪我を見て、自分なら、もっと上手く抱いてやれるのに、と思った事が始まりだった。
南雲が三枝の片恋の相手だと知ったのは、すでに南雲を手に入れた後だった。
二人の関係を知った三枝は、結局南雲に想いを告げぬまま、黙って一人身を引いたのだ。
それ以来、特定の相手を作る様子も見せず、ひたすら仕事に逃げていた三枝が、どうやら南雲以外に心惹かれる存在に巡り合ったらしいと聞いて、桂梧は是非とも“見合い”の瞬間を見届けたいと思いやって来たのであった。
「……わざわざ見に来たんですか?」
「まぁな。あの仏頂面がだらしなく崩れる瞬間なんて、なかなか見られるもんじゃないからな」
午後の診療時間までには帰るからと、大柄な身体を揺らして笑う姿は、仁王立ちしたグリズリーのような威圧感がある。
「嫌そうな顔すんなよ。わんこの顔拝みついでに昼飯たかってから、一緒に帰ろうぜ」
「何言ってんですか! ぼ……わ、私は嫌です。会いたくありませんっ!」
「はぁ? お前って犬嫌いだったっけ? でかい犬が苦手なのか?」
「そうじゃない犬が来ちゃったから嫌なんですっ!」
「え?」
南雲の肩を抱き寄せ、社長室を出ようとしていた桂梧の足が、ぴたりと止まる。
「あいつにそんな趣味は無かったろ?」
「パーティーで高藤物産の社長を紹介されたらしいです」
高藤の名を聞いただけで、桂梧は南雲の言わんとした事のすべてを察した。
常連とまではいかないが、彼自身、何度か「wisteria」を利用したことがあった。
店のペットと遊ぶためではなく、自分のペットの躾のために。
「で、来たのが……『snow』?」
「……私は遠慮しますから」
南雲が涙目で固辞するのも無理は無かった。
桂梧と付き合いだしてすぐの頃、南雲は「wisteria」に連れて行かれた事がある。
彼好みの反応を身体で覚えろと、当時のナンバーワンを相手に調教を受けさせられたのだ。
その相手というのが、「snow」と呼ばれる青年だった。
「じゃぁ、死亡説はガセか」
「海外にもファンのいる犬で『snow』と呼ばれていたそうですから」
「二丁目連中の“つぶやき”もあまり当てにはならねぇな」
「そういうわけで、行くならどうぞお一人で」
「やなこった」
「桂梧さん!」
肩に回された腕に力を込められ、南雲はなすすべも無く社長室から連れ出された。
力で敵うはずなどないと判ってはいるが、抵抗せずにはいられない。
「勘弁してください! まだ仕事だって残ってるんですから」
「今は昼休みだろ。ほら、ほかの連中も出てきたぞ」
財布を片手に廊下に出てきた社員たちが、会釈を残して外へと向かう。
そのうちの一人が、封筒を抱えて南雲の下へと駆け寄ってきた。
「どうしました?」
「あの、社長宛に時間指定で届いたんですけど」
「今日の午後一時?」
A4サイズの茶封筒には、高藤物産の社名と所在地が印刷されていた。
明らかに、「犬」の到着時刻に合わせたものだ。
「社長は、今日はもうご自宅ですよね? 届けたほうがいいんでしょうか」
「あっ……と」
「俺たちこれから社長んとこに招ばれてるから、持ってってやるよ」
笑顔で封筒を受け取った桂梧は、社員たちが立ち去ったのを見届けると、再び南雲の肩を抱き寄せ耳元で囁いた。
「仕事だぜ、社長秘書さん。行くしかねぇよなぁ?」
◆◆◆
「着替えてくるから、その辺適当に座っとけ」
部屋に入るなり三枝はネクタイを緩め、そそくさと自分の寝室へと消えていった。
玄関に放置されたsnowこと由貴也は、半ば唖然としながら三枝の脱ぎ捨てた靴を揃え、ドアのロックを確認してから自分も靴を脱いで上がりこんだ。
「お邪魔しま〜っす」
バスルームとトイレらしきドアの前を通り抜けると突き当りがリビングになっている。
中に入り真っ先に目に付いたのが、窓際にずらりと並んだてるてる坊主であった。
昨日の夕方までは、週末の天気に傘のマークがついていた。
深夜になって風向きが変わったのか、雲は流れ、朝には青空が広がっていたのである。
「ぐっジョブだな、てるてる坊主」
思わず歩み寄り、ひとつひとつ頭を撫でてやっていると、背後でぷっと吹き出すような笑いが聞こえた。
「何やってんだお前」
呆れたような、けれどどこか照れくさそうな顔で、着替えを終えた三枝が立っていた。
年季の入ったグレーのスウェットに、上はプリントも何も無い黒無地の長袖Tシャツ1枚。
コンビニに行くのにさえ着替えを要するような気の抜けた服装は、社長と呼ばれる人物の部屋着としては如何なものかと思えたが、飾り気の無いシンプルなこの部屋には、よく馴染んだものだった。
「や、夕べの予報じゃ雨だったから」
雨の日が嫌いなわけではないけれど、今日は晴れていて欲しかったからと由貴也が呟くと、三枝はほんの少し困ったように眉を寄せた。
三枝が作ったてるてる坊主を嬉しそうに撫でる様は、今日のこの日を、彼もまた楽しみに待っていたのだと知らしめるには充分で、人間を飼うなど出来るわけが無いのに、追い帰そうという気が萎えてゆく。
「ま、座れよ」
促された先のソファを見つめ、今度は由貴也が眉をひそめた。
L字型のゆったりしたソファの、一体どこに座れというのか。
共に百八十を超える長身の二人が、話のできる距離に座れば、嫌でも膝を突き合わせてしまう。
お断りを告げられる身にその距離は、親密過ぎてあまりに辛い。
やむなく由貴也は、三枝が腰を落ち着けた席のテーブルを挟んだ向かいの床に、ぺたりと座り込んだ。
「遠いだろ。こっち座れよ」
あからさまに不満を顔に表した三枝に、L字の角を挟んだ隣を示され、心が揺れる。
「そこじゃ近過ぎですって」
「会うなり飛びついてハグした奴が、何を今更。いいから来い。そして座れ」
「そういう言い方されたら、逆らえないじゃないっすか、もー」
思わず「ご主人」と呼びかけそうになり、誤魔化すように腰を浮かす。
それでも示された場所に座るのはどうしても気が引けて、結局三枝の足元に腰を下ろした。
「だからってそこかよ」
「だって俺、犬だし?」
そう言いながらこちらを見上げて首を傾げる姿は、まさに大型犬そのものだった。
間近で揺れる金茶の髪の誘惑が恐ろしい。
うっかり触ってしまわぬように、三枝は両手の指をしっかり組んで膝に置いた。
「さて、話とやらを聞かせてもらおうか」
「お茶とか淹れなくても?」
「あ、すまん! さっきコーヒー飲んだばっかりだったんでな。何でもいいか? いいよな?」
「え? ちょ……」
由貴也は自分が淹れるつもりで言ったのだったが、催促されたと思ったのか、三枝はそそくさとキッチンへ向かい、紙パックを二つ手にして戻ってきた。
「ほら」
「あ、いただきます……って『野菜生活』?」
「おう。ビタミン補給だ付き合え」
「はあ」
広々としたリビングに、しばし紙パックを啜る音だけが響いた。
一息に飲み終えた由貴也が、紙パックを丁寧に畳みながら、ぽつりと話をし始めた。
「俺ね、由貴也っての。高藤由貴也」
「高藤って……お前、あの社長の身内なのか?」
「店ではオフレコですけどね」
「まさか息子じゃ……ないよ、な?」
「俺の死んだ親父って男ばっかの三人兄弟の末っ子で。一番上があの社長」
「伯父が実の甥を、赤の他人にペットとして売り渡そうとしたってのか?」
「あ、別に伯父貴が金に困ってるとかでは無いんで、念のため」
「だったらなんで」
「条件が一致したのが俺だけだったからだと」
三枝は自分が出した条件を、人間の場合に当てはめて考えてみたが、でかいという形容詞は微妙だろうが、躾という点では、一般常識を備えた成人男性など、いくらでもいるように思えた。
「高藤の店ってのは、未成年ばっかりなのか?」
「表向き、十八歳未満はいないってことになってますよ」
「だったら何も実の甥を寄越さなくても他にいそうな気もするんだが」
他人ならばペットとして売り渡しても良いのかという部分は、この際脇に置いて考えた。
「一通りのプレイがこなせる従順な成人男子ってだけなら何人か居るけど、青姦OKでリバで、しかも身体のでかい奴なんて、あの店じゃ俺しかあてはまらない」
覚えの無い単語が条件として並べられ、三枝は慌てて話を遮った。
「待て! プレイだ青姦だってのは何だ? 俺にはそんなスキルも趣味も無いっ!」
「あれ? じゃ、乗っかられたり擦り寄られたり舐め回されるの大好きってのは?」
「お前が言うと全然別の意味に聞こえるし、大好きとまでは言っていないが……」
「似たようなことは言った覚えあり?」
「まぁ……」
「そもそもの前提が違ってるから言葉の解釈も違っちゃったんだろうけど……」
「プレイとか青姦に解釈される言葉って何だよ!」
「専用の部屋用意して待ってるって言ったっしょ? 休みの日には外で遊びたいとか」
「言った」
「専用の部屋ってプレイ部屋を指すことが多いし、遊ぶってSEXするって意味だから……」
つまり自分は、マンションの改装までしてプレイ部屋を用意した、家でも外でもヤル気満々のドSなご主人様と思われていたのだと知った三枝は、言葉を無くし、頭を抱えてうなだれた。
(来たのが俺で、ごめん……)
由貴也は心の中でそっと呟き、見ないようにしていた背後の部屋を振り返った。
南向きの、おそらくここで一番居心地の良いであろう部屋のドアが取り外されていた。
中には使い込まれたベッドマットが置かれ、色褪せた毛布が無造作に掛けられている。
それらにはきっと、三枝の匂いがついているのだろう。
玄関脇には真新しい床暖房のスイッチがあった。
リビングのソファも、三枝の座る位置からなら、その部屋の中が見渡せる向きで置かれている。
そして窓際のてるてる坊主。
何よりも、由貴也が掛けた到着を告げる電話に答えた時の、弾んだ嬉しそうな声。
(俺、ホントの犬なら良かった)
写真を見たときは、好みの顔でラッキーだと思う程度だった。
この顔に命令されて従うのなら悪くない、と思った。
電話越しに、切羽詰ったような、少しばかり上ずった声で「すぐにいく」と言われ腰に来た。
視線を感じて顔を上げたら、見守るような微笑を受けて、止まらなくなった。
こういう状態をきっと、一目惚れと言うのだろう。
何が何でもそばに居たくて、我を忘れて縋りついた。
犬違いだ帰れと言われても、部屋に上がり込んでしまえば、どうにでもできると思っていた。
拝み倒して縋り付いて。それで駄目なら押し倒してしまうのも手だと思った。
窓際のてるてる坊主とあの部屋を見るまでは。
(ご主人って、呼びたかったけど……)
双方の誤解が解けた今、由貴也がここにいる理由はなくなった。
後ろ髪を引かれる思いで暇を告げようと顔を上げた時、来客を告げるインターホンが鳴った。
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