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「やっぱ海、行くかなぁ」
「十三時でしたっけ? あと一時間ちょっとですね」
上機嫌で呟く三枝に、くすくすと小さな笑いを添えて、秘書の南雲(なぐも)がコーヒーカップを差し出した。
「週末の天気予報の傘マーク、消えて良かったですね」
社長秘書という立場のわりに、くだけた口調で話す南雲 譲(なぐも・ゆずる)は三枝の大学時代の後輩である。
穏やかな物腰が女性社員に人気の優男であるが、実のところ、ガチムチの熊系男に乱暴に抱かれるのが好きだと公言して憚らない、若干Mの入ったバリネコのゲイであった。
下心込みで自分の会社に誘い入れた三枝であったが、南雲の好みに微塵も掠らないと思い知らされて以来、セクハラ上司と言われないよう、早々に口説き文句を封印した。
残った想いは熾火のように、三枝の胸の奥で燻り続けていたが、それも今日で終わるだろう。
「てるてる坊主ってのは効き目があるんだな」
月曜に発表された週間予報では、週末の天気は曇りのち雨。しかも金曜の午後から徐々に崩れ始め、土日にいたっては終日、大きく開いた傘のマークが貼りついていた。
三枝はその予報を覆すべく、昨夜のうちにてるてる坊主をいくつも作り、リビングの窓際にずらりと並べて吊るしたのであった。
「……作ったんですか?」
「ティッシュを丸めた簡単なやつだけどな。ずらっと並べたらなかなか壮観だった」
「ずらっとって……」
「十個くらいか?」
「多ければいいってもんでもないと思いますけど」
「けど傘マークは消えたし、今日だっていい天気だろ?」
口元をにやりと歪め得意気に親指を立てる三枝は、まるで悪戯をやり遂げた悪ガキのようだ。
躁状態と言ってもいいような三枝のはしゃぎっぷりは、南雲から見れば、どこか無理をしているようにも思えたが、原因の一端が自分にあると自覚している手前、迂闊な事は言えなかった。
三ヶ月前、南雲は総務に住所変更の書類を提出した。
五年越しの付き合いの恋人と一緒に暮らすために。
三枝は笑って祝いの言葉をくれた。
だが、その頃からなのだ。
彼が犬探しに本気になったのは。
「で? 結局何にしたんです? 初心者向きの大型犬というとゴールデンレトリバーですか?」
自分を忘れるために、三枝が犬を飼おうとしているのかもしれないという思いが拭えない。
これが思い込みの激しい自分の、ただの自惚れた勘違いであればいい。
南雲は切に願いながら、犬の話題を口にした。
理由はどうあれ、三枝が犬の到着を心待ちにしているのは間違いない。
何度も時計を気にしては、緩みっぱなしになりそうな口元を、コーヒーを啜ってごまかして。
「あ、でも、元気がいいのはラブラドールのほうでしたっけ? 写真とかは?」
「聞いてないしもらってない」
「はい?」
「でかくて懐っこい性格なら、種類なんてなんでも良かったからな」
「そんなでよく探してもらえましたね。どこのショップですか? それとも個人的に?」
「先月拝み倒されて出たパーティーあったろ? そこでショップのオーナーを紹介された」
「先月って……ゲイ小説で有名な作家先生の、出版記念のあれですか?」
嫌な予感が脳裏をよぎる。
その作家の作品は、金欲しさに身を売る少年たちの、群像劇が売りではなかったか。
作品世界だけでなく、本人もまた同様の世界にどっぷり身をおいているというのも周知の事実。
そんな作家のパーティーに招待される人物の、個人の趣味で経営しているというショップの商品が、普通の犬や猫であるはずがない。
「高藤物産、知ってるか? そこの社長が、趣味でペットショップの経営もしてるからって」
南雲の頬がひくりと攣った。
「もしかして……『wisteria』ですか?」
「なんだ、結構有名な店なのか? ここらにある店じゃないよな?」
的中してしまった予感に、南雲の肩ががくりと落ちる。
金で男を買う趣味の無い者には縁の無い世界だから、三枝が知らなくとも不思議は無いが、「wisteria」は、そういう趣味の男たちの間では特に名の知れた、会員制の高級男娼クラブであった。
会員は店に通って遊ぶのが基本だが、気に入った男娼がいれば、条件次第で個人のペットとして買い取ることもできた。件の作家も会員登録していたはずだから、三枝のペットが欲しい発言を自分基準で取り違え、オーナーの高藤に紹介したに違いない。
見繕ったのが高藤ならば、間違いなく、今日やってくるのは人間だ。
性格はゴールデンレトリバーかもしれないが、垂れた耳もふさふさの尻尾も生えてはいない。
「仔犬だけじゃなくて、訓練を受けた成犬も扱ってるって言うんで、懐っこくて従順なでかい犬が欲しいって話したら、ちょうどいいのがいるって言うんだぜ? 頼むだろ?」
嬉しそうに語る三枝の言葉がおそろしい。
高藤の耳には、調教済みの、首輪の似合う成人男性が欲しいと聞こえたことだろう。
「休みの日には外で思いきり遊んでやるつもりだっつったら、笑われたけどな」
「よっぽどはしゃいで見えたんじゃないですか?」
青姦好きと認定されたからだとは、口が裂けても言えなかった。
大体高藤も、おかしいとは思わなかったのだろうか。
会員同士の会話ならいざ知らず、店の存在すら知らない三枝を相手になぜ。
パーティーの余興だというのなら、あまりにも性質が悪すぎる。
それともこれが、新規会員を獲得するための、手口の一つだとでもいうのだろうか。
「ま、ホントに飼うかは、今日会ってみてから決めるんだけどな」
「え?」
「俺はその場で金払っても良かったんだが、相性ってのがあるから会ってから決めろとさ」
「じゃ、気に入らなければキャンセルも可能なんですか?」
それならば、このまま黙って対面させるのもいいかもしれない。
今後のためにも、こういう世界があるということを、知っておいてもいいだろう。
「まぁな。俺の他にも希望者が何人かいるって話だ」
「ずいぶん人気者なんですね」
「海外にもファンがいて、そいつらには『snow(スノウ)』って呼ばれてたらしい」
「は……い?」
南雲は全身の血の気が引いてゆくのを感じて固まった。
「なんだ、どうした? ……っと!」
突然態度を変えた南雲に声をかけようとしたところで、三枝の携帯が鳴った。
我に返った南雲が時計に目をやると、時刻は12時30分を回ったところだった。
「はい、三枝です。今どこですか? え? 下?」
三枝の声のトーンがはね上がる。
「大丈夫です、すぐ行きます! ……ええ、はい。それじゃ!」
通話を終えるなり帰り支度を始めた三枝に、南雲は慌てて駆け寄った。
南雲が知る限り、あの店で「snow」と呼ばれる男は一人しかいない。
高藤が寄越した犬が彼ならば、三枝はきっと断らない。いや、断れない。
「社長!」
「渋滞見越して出たら早くに着いちまったらしい。後は頼んだ!」
「ちょっ!」
南雲の制止を無視した三枝は、電光石火とも言うべき速さで社長室を飛び出した。
◆◆◆
エレベーターを待つのももどかしく、一段抜かしで階段を駆け下りた三枝は、へたる膝頭を押さえ込み、まずは乱れた呼吸を整えた。
年齢を自覚してジム通いなどもしてはいるが、この数ヶ月は犬探しに気を取られ、すっかり足が遠のいていた。
「仕事、サボってでも……はぁっ、ジムだけは、行っ、とく、べきだったな……」
ぷるぷる震える太ももを叱咤し、肩で大きく息をしながら、ビルの裏手へと向かう。
そこにはビルの駐車場と、マンションの住民のための直通エレベーターが置かれたエントランスが設けられていた。
足早に駐車場を抜け、エントランスへと向かう。
檻にでも入れて連れて来るのかと思っていたが、それらしき車は見当たらない。
普通の車で後部座席に座らせてきたのだろうかと辺りを見回していると、一人の青年に目が行った。
エントランスの入り口に携帯片手に座り込んでいる姿が、まるで主人の帰りを待つ犬のようだ。
金茶の髪といい、身に着けているゆったりとしたニットの明るいクリーム色といい、どちらもお気に入りのあの犬を思い起こさせる色合いで、三枝は思わず足を止め、笑みを浮かべて眺めてしまった。
そんな三枝の視線に気付いたらしい。
ふっと顔を上げた青年がこちらを向いて、その目が大きく見開かれたのが見えた。
しまったと思い三枝が視線を逸らしたのと、おもむろに立ち上がった青年がこちらへ向かって駆け出したのは、ほとんど同じタイミングであった。
「ごっしゅじーんっ!」
「うわっ!?」
駆け出してきた勢いそのままで飛びつかれ、三枝はたたらを踏んでよろめいた。
「おいっ!」
「写真で見るよりずっとイイ男じゃん♪」
「なんなんだお前はっ! いいから離れろっ!」
「えー? だってご主人、こういうのが好きって聞いたけど?」
青年の言葉に三枝の動きが止まる。
「ご主人?」
「……離せ」
低い声音で三枝が命じると、青年は素直に従い拘束を解いた。
これ見よがしにスーツの乱れを直す三枝に、無言のままで睨み付けられ、大きな身体がしゅんと縮こまる。
「あー……っと、ごめんな、さい?」
「目上の者に対する謝罪は『すみません』もしくは『申し訳ありません』だ」
「も、申し訳ありませんでしたっ!」
青年はすらりとした長躯をばっと折り曲げ頭を下げた。
見事に九十度を保った姿勢は、直角定規がピッタリ重なりそうだ。
「……もういい。お前、高藤物産の社長に言われて来たんだろ? 犬はどこだ?」
「はい」
「お前が手を上げてどうする。犬は? 車の中か?」
「や、だから『はい』」
「……」
尚も片手を挙げて存在を主張する青年に、三枝は右の掌を差し出した。
「お手」
すっと青年の右手が乗った。
「おかわり」
躊躇いもせずに今度は左手が。
「お前が犬だというのはよーっくわかった。回れ右して駆け足で帰れ」
「えええええっ!?」
「吼えるな馬鹿犬。俺が欲しいと言ったのは尻尾の生えた普通の犬だ。人間のオスに用は無い」
「普通の犬ってジョリーとかヨーゼフとか……旅犬のまさお君、とか?」
「ジョリーとまさお君はアリだが、ヨーゼフはパスだ。あのボリュームは手に余る」
「俺の髪ってまさお君の毛の色みたいって言われるけど?」
「その髪だけならウチに置いてやってもいいぞ」
「いやいやいや。そこはゼヒとも本体も……」
「いらん」
「ご主人〜〜〜っ」
「勝手に飼い主認定するんじゃない!」
再びハグの体勢に持ち込もうとする青年の腕をスウェーし後頭部をぶっ叩く。
「痛ってぇ……」
「ここは日本だ。天下の往来で抱きつくな」
「え。んじゃ、部屋ん中ならOK?」
「じゃあな」
くるりと背を向け立ち去ろうとする三枝に、青年の声が縋りつく。
「二度と外では抱きつきません。すみません。だから俺の話、聞いてください」
「『お願いします』が抜けてる」
「お願いします」
「……付いて来い」
三枝とていつまでも自宅マンションの駐車場で、主従漫才など繰り広げたくは無い。
何よりひと月待つから他所へはやるなと、優先権を主張したのは他ならぬ三枝自身なのだ。
今回のこれは、あくまでも高藤と三枝の間での行き違いであって、青年には何の落ち度もない。
二度と同じ過ちを犯さぬように、青年の属する世界の話を聞いておいたほうがいいだろう。
いくつもの言い訳を頭の中に並べながら、三枝はエレベーターのボタンを押した。
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