都心から離れた海辺の街のビル群は、周囲の景観を損なわないよう控えめな高さで、駅前の一区画に整然と並んで建っていた。
観光客向けの土産物屋や飲食店が入ったそれらのビルの並びから、通りを二つばかり奥へ入った住宅街との境目に位置する一角に、三枝鷹斗(さえぐさ・たかと)が構えるオフィスの入ったビルはある。
一階部分にペット連れで入店できるオープンテラスを備えたカフェテリアがあるそのビルは、二階と三階はオフィス向けのスペースになっているが、四階と五階はマンション形式の居住スペースという構造になっていた。
徹夜明けで眺める窓の下、散歩の途中であろう近隣の住民達が、大小さまざまな犬や猫を連れてオープンテラスで寛ぐ姿を見るたびに、三枝はうらやましいと思っていた。
中でも年配の紳士が連れている明るい金茶の大型犬が、三枝の一番のお気に入りだった。
リードではなくハーネスをつけたその犬は、一旦飼い主の足元に寝そべると誰が声をかけても見向きもしないが、飼い主が一声掛ければたちまちしゃんと背筋を伸ばして座りなおし、尻尾を振って応えて見せるのだ。
きちんとした躾と訓練を受けた犬なのだろうが、きびきびとした動きの合間に見せる飼い主への甘えるような仕草がたまらない。
自分もいつかあんな犬が飼いたいと、密かな夢を抱きながら、家路に向かう彼らの後姿を見送るのが日課になってしまった頃、思いがけない幸運が舞い込んできた。
どうしてもと請われて出席したパーティーの席で、ペットが欲しいと洩らした三枝の言葉を聞きつけた主催者が、本業とは別に個人の趣味でペットショップを営んでいるという人物を紹介してくれたのだ。
高藤(たかとう)と名乗ったその人物は、ダブルのスーツを粋に着こなした、五十絡みの恰幅のいい紳士だった。
『ペットをお探しだそうですが』
『犬を、飼いたいと思っているんです』
『オスですか? メスですか?』
『避妊のことを考えると、やはりオスのほうがいいですね』
『なるほど。で、今まで飼育や調教のご経験は?』
『それがまったくの初心者でして。ですから、仔犬を一から躾けるのは無理なので、専門の訓練を受けて、よく馴らされた成犬がいいなと思っているんですが……』
『小型の愛玩犬なら明日にでもお届けできますが』
『あ、いや。欲しいのは大型犬なんです。懐っこい性格なら、多少のやんちゃは気にしません』
『甘えて飛び掛ったり、擦り寄っては舐めたがるようなタイプがお好みで?』
『そうです、そうです! それでいて、いざという時には、従順な奴がいい』
『条件にピッタリな犬がおりますが……少し、お時間をいただけますかな?』
大きなショーに出る予定が入っているから一ヶ月ほど待ってもらえるのならと言われ、三枝はその場で高藤の申し出を受けた。それまでに部屋を改装しておくので、くれぐれも他所へはやらないようにと言い置いて。
部屋を整え、受取日を一ヵ月後の金曜の午後に指定し、事業を立ち上げてから初めて土日の連休を確保した。
自分がゲイだと自覚して久しい三枝は、一夜限りの相手や仕事絡みの飲み仲間に不自由することはなかったが、プライベートな休日を共に過ごしてくれるような相手には恵まれていなかった。
一人で過ごす休日が嫌だったから、まとまった休みを取るのは避けていた。
だがこれからは『彼』がいる。そう思うと週休二日も悪くない。
せっかく海辺の街に暮らしているのだ、天気のよい日は砂浜を思い切り走らせてやろう。
水遊びか好きならば、海に入れてやってもいい。
帰ってきたら、一緒に風呂に入って、ブラッシングをしながら冷えたビールを飲もう。
らしくもなく、職場のデスクに置いたカレンダーに丸など付けた三枝は、その日が来るのを指折り数えて待っていた。
◆◆◆
うららかな陽光を浴びながら、海辺へと続く階段を、コートを脱ぎ捨て駆け下りてゆく。
うっすらと霞のような雲のたなびく空の色は柔らかで、春の訪れが近いことを感じさせた。
潮風を胸いっぱいに吸い込んで眺める水面はキラキラと輝き、砂浜には自分以外の足跡は無い。
自分の名を呼ぶ声に振り返り、自分もまた、その人の名を口にする――
夢はいつも、そこで途切れた。
「う〜〜〜〜っ……」
毛足の長い絨毯に突っ伏すように横たわっていた青年が、掠れた呻きと共に身を起こした。
ふるりと頭を振って起き上がり、ため息と共にその場に腰を落とす。
両脚を投げ出すように伸ばし、後ろ手に付いた腕に体重をかけながらやたらと高い天井を仰ぐ。
一片の布切れすら纏わぬ裸のままで、由貴也(ゆきや)はぽつりと呟いた。
「またかよ……」
名を呼ばれたことは覚えているのに、その声が思い出せない。
自分が口にしたはずの名も、振り返って見つめたはずの、相手の姿も分からない。
覚えているのは泣きたいくらい幸せで、駆け出さすにはいられないほど舞い上がっている自分。
「リアルとのギャップが激しすぎだっつーの」
前髪をかき上げながら見上げた先には、天蓋付きの豪奢なキングサイズのベッドがあった。
情事の後の乱れたシーツの上に横たわる裸の尻はひとつではない。
存分に欲望を満たした客人たちはベッドで惰眠をむさぼり、当分目覚める気配も無い。
窓も無く、時計も置かれていない秘められたこの部屋の中では、今が昼か夜かもわからない。
ただ、もてなす側の自分は、客人が目覚める前に姿を消すのが、ここでのマナーであった。
ゆっくりと立ち上がり、尻に力を入れて、中身が漏れ出さないように慎重に歩く。
うっかりこぼした精液を後で掃除するのも自分なのだ。余計な手間は省きたい。
バスルームへと身体を滑り込ませ、温めのシャワーを頭から浴びる。
熱い湯で身も心もさっぱりしたいところだが、体中に残る歯型や引っ掻き傷が、そうすることを躊躇わせた。
一人で複数を相手にするのも、アナルを使うのも久しぶりだった。
客のアナルを穿ちながら、自分のアナルもまた別の客に穿たれた。
乳首を捏ねられ、首筋に噛み付かれ、喘ぐ口元にはさらに別の客のペニスが押し付けられた。
順番待ちのほかの客のペニスを手で扱き、待ちきれずに吐き出された白濁を顔で受け止める。
何人をイかせて何度イかされたのかもわからない。
怪しげな薬でテンションを上げた男たちの性欲は旺盛で、由貴也は一瞬、病院行きを覚悟した。
それでもやがて一人減り、二人減り、繰り返された挿入で締め付けの緩くなったアナルに、最後まで粘っていた二人が同時に突っ込んできたところまでは記憶にあるのだから、首尾は上々だったと言うべきだろう。
「んっ……」
お湯とは違う粘度の液体が内腿を伝う感触に、背筋が震えた。
立っているのが辛くなり、片膝をついてアナルの奥の残滓を掻き出した。
足元に流れ落ちる湯が透明になったことを確かめ立ち上がる。
少しだけ温度を上げた湯を全身にくまなく浴びて、シャワーを止めた。
「ふう〜〜」
ぶるぶると頭を振って雫を飛ばし、額に張り付いた髪をかき上げたところで、バスルームの扉が細く開いた。
「終わったか?」
「ういっす」
差し出されたバスタオルを無造作に受け取り、由貴也は事も無げに頷いた。
「首尾は?」
「上々」
「……怪我は」
「医者呼ぶ必要はないっすよ」
「手当てが済んだら部屋に来い」
「了解」
扉の向こうの人物は、由貴也の様子を確かめることも無く部屋を出て行った。
◆◆◆
「お前の新しい飼い主だ」
渡された雑誌の付箋の張られたページを開く。
話題の若手実業家を取り上げているらしい記事に載せられた写真は、ひどく無愛想だった。
カメラマンの腕が悪いのか、被写体本人の機嫌が悪かったのかは知らないが、どこか投げ遣りにも見えるその表情は、由貴也の心にさざ波を呼んだ。
「先方は躾の行き届いた従順な『犬』をご所望だ。しかも飼われ慣れた大型犬がお好みらしい」
初物を仕込む趣味は無いらしい。
手馴れた性欲処理の相手が欲しいということか。
「今までは他人の犬で遊ばせてもらってたらしいが、自分だけの犬がほしくなったそうだ」
「はぁ」
「マンションも改装したと言ってたな。防音・除菌・消臭も完璧な専用の部屋を用意したと」
「プレイ部屋完備? そっちの趣味?」
「普通に可愛がるつもりらしいぞ? 散歩に連れ出して、公園で遊んだりしたいとか……」
「青姦が普通基準のご主人様っすか……」
「でかい図体で圧し掛かってじゃれつくような犬が好みだそうだから、せいぜい励むんだな」
「……ういっす」
ねだり倒して奉仕して、ご褒美に抱いてもらえということだろうか。
それとも抱いて満足させろということか。
どちらにしろ、相手はかなりの手練れと思っておいたほうがいいようだ。
雑誌の記事に目を通す。
――三枝鷹斗(さえぐさ・たかと)三十七才独身。IT関連企業社長。身長百八十三cm、体重八十六Kg……
「身長・体重・スリーサイズに靴のサイズまで載せるって、一体何の……」
思わず雑誌の表紙を見返した由貴也は、ゲイ御用達の人気雑誌のロゴを目にして納得した。
数年前に、出会い系とは一線を画するゲイ専門のSNSを立ち上げ、業界内で話題になった企業があったが、どうやらそこの社長がこの三枝という男らしい。とはいえ、事業に関する内容はほんの数行で、記事の大半が三枝本人のプライベートに関わるゴシック紛いの質問のオンパレードでは、冒頭の写真が不機嫌そうな表情なのも頷けた。
身長はほぼ同じだが、胸板の厚みでは若干負けているかもしれない。
年齢こそ一回り上だが、男盛りといってもいい年代だ。
写真の表情は最悪だが、顔の造りは悪くない。むしろ男前の部類に入るだろう。
「なんか、ちょっと、犯されてぇかも……」
腰の辺りに甘い疼きを感じながら、そっと写真に指を滑らせた。
「散歩で海、とか……連れてってくれっかなぁ……」
夢の続きの面影に三枝の顔を思い浮かべながら、由貴也は小さく呟いた。
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