咎狗の血シリーズ



 呟きが外へ漏れるはずなどなかったが、アキラは思わず出入り口に目を向けた。

 源泉は風呂上りのビールに舌鼓を打っていた。
 入浴シーンを覗きにくることもないだろう。

 いつもは急かすようにアキラを先に風呂場に追いやり、背中を流してやろうなどと言っては、前を隠しもせずに堂々と乗り込んでくるのだが、今日はさっさと先にひとりで済ませていた。

 アキラは自分の唇にそっと触れた。

 アキラが出版社から帰ってきてから、今日は一度も唇を重ねていない。
 バレンタインの話をする前に、頬にひとつ、落ちてきたきりだった。
 話の合間に髪をかき混ぜられたり頬をつつかれたりはしていたが、キスはしていない。

 なんとなく物足りない想いを抱えながら立ち上がりかけたところで、目眩に襲われた。
 眼球の裏側で光が点滅するような感覚と共に天井がぐるりと回る。
 満足に受身もとれないまま、アキラは派手な水音を立てて湯船に倒れこんだ。

「――ッがはッ! ……ッは……」

 どうにか頭だけは浮上させ、バスタブの縁にへばりつく。
 そのまま目眩が治まるのを待っていると、騒々しい足音が響き、乱暴に扉が開かれた。

「アキラッ!?」

 飛び込んできたのは確かに源泉だったのだが、アキラはかすかな違和感を感じた。
 ぐるぐると回る視界の中で、源泉はスラックスにYシャツ姿だった。
 さっきまでスウェット1枚だったのにどうしてと思う間もなく抱き上げられる。

「……服、濡れる……」
「そんな事気にしてる場合か、馬鹿! どうした!?」
「でかい声、出すなよ。……頭に、響く…だろ」

 それだけ言うと、アキラはくたりと源泉に身体を預けて目を閉じてしまった。
 全身が茹でダコのように真っ赤になって、呼吸が荒い以外は目立った外傷もない。
 安堵の息を吐いた源泉は呆れたように呟いた。

「ったく……。のぼせるまでつかってる奴があるか」

 珍しく長風呂のアキラに、言いつけを守って感心だなどと思っていた源泉であったが、何時までたっても物音一つしない様子を不審に思い声を掛けようとした矢先の事だった。

「これがわざとだってんなら、お前さん、勘が良すぎるぞ」

 朦朧としているアキラをしっかりと抱きかかえた源泉は、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべ、寝室へと向かった。

 とりあえず裸のままアキラをベッドに寝かせ、薄手の毛布をかけてやりながらペットボトルを手渡してみるが、力が入らないらしく、ふたも開けられないまま床に落としてしまった。

 口移しで飲ませようとすると、嫌そうな顔をする。

「水分とらなきゃ脱水症状起こすぞ。ちゃんと口開けろ」
「シャツ……」

 どうやらアキラを抱えた時に濡れたYシャツが触れるのが気持ちが悪いだけで、口移しには異存はないらしい。源泉は迷うことなくシャツを脱ぎ捨てると、再び水を口に含み、アキラの唇を覆った。

「……んっ……」

 アキラの舌が、注がれる水を待ちきれないとばかりに源泉の舌に絡みつく。二口三口と仰のいた喉を上下させながら音を立てて呑み込むアキラに、今度は源泉がのぼせそうな目眩に襲われた。

 呑み込みきれなかった水を唇の端から零しながら、上気した顔でもっとと言われてしまっては、何をねだられているのか判らなくなってしまう。

(たまらんなぁ)

 のぼせたままのアキラが相手では軽口を叩くわけにもいかず、源泉は苦笑するしかなかった。

 結局ペットボトルが空になるまで、源泉は水を飲ませる為だけに、アキラと唇を重ね続けた。

「まだ飲むか?」

 空になったペットボトルをアキラの目の前でひらひらと振ってみせると、小さく左右に首を振った。

「そうか。だったらついててやるから、このまま寝ちまえ。な?」
「アンタは、寝ないのか?」
「んー?」

 ようやく頭がすっきりしてきたアキラは、源泉が服を着ていた事を思い出していた。

「……俺が寝てから、出掛けるのか?」


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