咎狗の血シリーズ
「くそッ! なんだこれ!」
しばしの沈黙の後、舌打ちと派手な水音が交互に続いていた。
「なぁ、アキラー?」
「うるさいっ」
袋の中身を仕分けしながら、源泉は独り言のように呟く。
「最近の口紅ってのは、水で流したくらいじゃ落ちないらしいぞ」
「ッ!?」
「なんでも“くれんじんぐじぇる”とか言う専用の洗剤があるらしいなぁ」
水音が止まった。
「アンタ、知ってて……」
「だから今、教えてやったろ?なんだ。結構落ちてるじゃないか」
「触るなっっ!」
「わっぷ!」
濡れた顔を拭いもせずに戻ったせいで、髪に付いていた滴が源泉の顔にはねた。
「そんだけ落ちてりゃ、もういいだろ? ちゃんと顔拭いて来い。髪もな」
「まだ赤い」
「無理にこするから皮膚が赤くなってんだよ。大丈夫だって」
「そんなの…」
判るもんかと小さく呟いたアキラは、そのまま源泉の視線を外すようにそっぽを向いた。
そもそも何故、自分がこんな仕打ちを受けねばならないのだ。よってたかってもみくちゃにされ、意味不明な横文字の言葉と共に花だのリボンの付いた包みだのを持たされた。あげくに、頬に悪趣味なマークまでつけられていたなんて……。
「…何の意味があるんだ」
頭の中に浮かんだ疑問が思わず声になる。
「あ? 何が?」
「口紅。人の顔にあんなものつけるなんて」
源泉が、珍しい生物を見るような目つきでこちらを見つめていた。
「アキラ……。ありゃ、キスマークだぞ?」
アキラの眉が源泉の言葉を否定するようにしかめられた。
「キスなんて、されてない」
「あんだけ綺麗についてたんだ。気付かないわけないと思うがなぁ」
確かに今思えば、何かが頬に押し付けられる感触があったような気もする。
けれどその感触は、アキラの知るキスとは明らかに違う種類のものだ。
「知らない。それに……」
「それに? なんだ?」
「キスマークってのは――。……違うだろ」
アキラは一瞬抗議の眼差しを源泉に向けると、再びフイと顔を背けた。
「違うって他にどんなキスマークが……あ」
「……」
「あ! ああ〜、そうか! こりゃ、オイチャンが1本取られたなぁ」
自分の額をわざとらしく音を立てて叩いた源泉は途端に相好を崩し、アキラを抱き寄せた。
「そうだよなぁ、お前さんの知ってるキスマークとは、違うよなぁ」
うんうんと頷きながら、そのままアキラの頬に唇を落とす。
「オッサン」
「今のはなーんだ?」
「…………キス……だろ」
判りきった事を訊くなとでも言いたそうなアキラの表情が、ますます源泉の破顔を誘う。
ほんの少し、軽く触れただけの源泉の唇をキスだと断言し、口紅の跡がくっきりと残るようなそれは、キスではないと言う。
「アキラ。オイチャンは今、モウレツに感動しているぞ」
「何で」
「オイチャンの以外はキスでもキスマークでもないなんて。くう〜〜〜ッ」
アキラを抱きしめる源泉の腕に、力が篭った。
過剰なスキンシップを予感したアキラは半身を逸らし逃れようともがくが、背中を向けたところで源泉の胸にがっちりとホールドされてしまった。
「あー…。チョコより先に、オイチャンが溶けそうだ」
「チョコって何の事だ?」
「バレンタインだしな。このまま昼下がりの情事というのも…」
「あ」
――“ハッピー・バレンタイン”
黄色い声に迎えられた出版社のオフィスで同じ単語を聞いたような気がする。
「アキラ?」
「バレンタインってなんだ?」
いつもなら真っ赤になって抗議するような源泉のセリフをアキラは華麗にスルーした。