霊感探偵倶楽部・姉崎探偵事務所シリーズ
第4話
バスローブ姿のままベッドに腰掛けた鴻は、中沢の口づけの意味を考えていた。
――応えて欲しい――
懇願と言ってもいいほどのそれは鴻に何を望んでいるのか。
いつだって拒むことなく最後まで中沢を受け入れてきた。
肉体だけの話ではない。精神の檻を解放し、全身で受け入れてきたのだ。
それだけでは足りないというのだろうか。
確かなものなど何もなくて、自分の存在すら信じる事ができなかったあの頃、中沢だけが自分を人間として扱ってくれた。友人として、何の躊躇いもなく当たり前の顔をして隣にいてくれた。
それがどれほど嬉しかったことか。
何と引き替えにしても失いたくないと思っていた。
だから初めて求められた時も、拒まなかった。それが単なる好奇心でしかなかったとしても、肉体を差し出すことで彼をつなぎ止めておけるのなら、何をされても構わなかった。
すでに陰陽の修行において鶏姦の術も心得ていた鴻にとって、己の肉体に対する貞操の念などないに等しかったのだ。
初めて男を抱くのなら、力任せに突っ込むか途中で萎えるかのどちらかだろうと思っていた。多少の肉体的なダメージは覚悟の上だった。
だが―――
予想に反して中沢の行為は優しかった。男の扱いに慣れているわけではなかったが、鴻の負担を少しでも軽くしようと懸命に動いてくれたのだ。
もともとそういう抱き方をする男だったのかもしれないが、"酔い"が鴻を誘うための単なる口実でしかなかったことは、肌に刺さる真剣な眼差しと、慈しむような指の動きでハッキリとわかった。
初めてのあの夜を鴻も忘れてはいなかった。
ただの肉塊としか思えなかった己の肉体を、生まれて初めて、生きている人間の身体として感じさせてくれたのだ。
自分も人間なのだ。人間でいていいのだと、中沢のぬくもりが教えてくれたのだった。
あの夜以来、鴻は、修行の場においても自分が受け身になることはしなくなった。
命に代えても大道寺を守るという「使命」とは別の次元のゆずれない願い。それが中沢高志という男の存在であり、同時に鴻自身が人間としての意思を保ち続けていることの意味でもある。だからこそ、望まれるままに全身で中沢の想いを受け入れ魂の奥にまで染み込ませてきたというのに、これ以上どうやって応えろというのだろう。
中沢が何を求めているのか、鴻には理解できなかった。
鴻自身には何の不満もないだけに見当もつかないのだ。
受け身の修行が足りなかったのだろうか。
だが中沢とのやりとりは、修行などよりはるかに密度の濃い、充実したものだったのに、そう思っていたのは実は自分だけで中沢にはそうではなかったのだろうか。物足りない思いをさせていたのだろうか。
中沢はどうして何も言ってくれないのだろう。
何も言わぬままやがてあきらめてしまうのだろうか。
あきらめて、そしていつかは離れていってしまうのだろうか。
鴻は背筋が凍りつきそうな感覚を覚えて身震いした。
「どうした? 具合、悪いのか?」
バスタオルを腰に巻いただけの姿で中沢が戻ってきた。
「いや、大丈夫だ……」
鴻は中沢の不満の原因を問い質そうとしたが言葉が出てこない。
何と言って尋けばいいというのだ。
中沢は隣に寄り添うように腰を下ろすと、鴻の顔色を確かめるようにのぞき込みながらそっと顔にかかった髪をよけてくれた。
抱き寄せてくれる。
鴻はそう思っていた。
この腕に包まれたなら、本気の想いを感じられたなら―――
「無理しなくても、やめてもいいんだぞ」
だが、中沢の腕は伸びてこなかった。
中沢にしてみれば、青ざめた顔でうつむく鴻の身体を気遣っただけだったのだが、この一言で鴻の中の何かが外れてしまった。
「ど……うし……て……」
つぶやく声に涙が混じる。
バスローブの裾を握り締めた拳にしずくが落ちた。
「お、おい! どうしたんだ? どこか痛むのか?」
突然の鴻の涙にうろたえた中沢は、鴻の両腕をつかんで表情を確かめようとするのだが、鴻は顔をそむけて首を横に振るばかりだ。
「何だよ…。どうしちまったんだ? 大丈夫なのか? おい……鴻?」
「っ! …こんな時に……そんな名で私を呼ぶなっ!」
泣くつもりなどなかった。
なのに、涙が勝手にあふれてきて止まらない。
中沢が抱き寄せてくれなかった。
たったそれだけの事なのに、魂にヒビが入る音が聞こえてしまった。
胸が痛む。幻覚などではない。
現実に、胸が締め付けられたように痛んでいた。
中沢にその気がなくなったというなら自分から誘えばいい。
そのための術ならいくらでも心得ている。
なのに動けない。
「なぜだ…。なぜそう思う……」
無理などしていない。
中沢に望まれてこそ自分は人間でいられるというのに。
「おい! お…じゃなくて、恵二! 聞こえてるのか? おいっ」
何故何も言わずにあきらめようとするのだろう。
足りないものがあるのなら教えて欲しい。
どうして何も言ってはくれないのだ。
言っても無駄だと思っているのだろうか。
抑え続けていた感情が臨界を越えようとしていた。
「……嫌だ……」
鴻の声が一段低くなった。
同時に周囲の空気が冷気にと変わる。
ゆっくりと顔をあげた時、涙に濡れた瞳は紅く輝いていた。
漆黒の髪がうねうねと踊り始めている。
人としての表情が消えてゆく――
「お前だけは…お前にだけは…私を…」
あきらめて欲しくない。失いたくない。
黒髪が宙を舞う。
「恵二っ!? …っ! …痛ぅ……」
中沢の眼鏡が弾け飛ぶ。
床に落ちたその音が、鴻の動きを止めた。
「!? ………あ…………」
臨界に達してしまった感情の波が力を暴走させてしまったらしい。
中沢の頬を鮮血が伝っている。
失いたくないという強い想いが、負の方向に作用したのだ。
「私は……何を……」
鴻は魂が凍えていく感覚を味わっていた。
目の前に闇が降りてくる。
己を取り巻く冷気が中沢の姿を消してゆく。
ただ一筋の血のしたたりを残して。