霊感探偵倶楽部・姉崎探偵事務所シリーズ

第3話


「ぼちぼち戻るか……」

 カーラジオから時報とともに交通情報が流れ出す。
 首都高は今日もだらだらとつまっているらしい。

 エンジンを切り、買い込んだ食料を全部下ろしドアを締める。
 空を見上げると夕闇がせまっていた。
 排気ガスと光化学スモッグに覆われた都会の空でも夕焼けはそれなりに美しく見えるから不思議なものだ。

 逢魔刻。そんな言葉が頭をよぎる。
 昼と夜との境目があいまいになるこの時刻はあの世とこの世の境目も曖昧になるらしく魔物に出会う確率も高くなるという。

「今更、だな。ネタにもならん」

 中沢は、昼夜を問わず"そういう奴ら"にばかり目がいく友人を思い、憂鬱そうに呟いた。

「やっぱ、帰っちまうだろうなぁ」

 結局、鴻を引き留める「仕事」は思い付かなかった。
 もっとも、買い物を終えてこうしてマンションの駐車場で時間つぶしを始めるまでは、そんな事を考える余裕などなかったのだが。

 鴻を迎えに行った時、死人が立っているのかと思った。
 疲れている、とかそんな次元の状態ではなかったのだ。
 助手席に座らせマンションに向かう間も気が気ではなかった。
 このまま消えてしまうのでは、と何度も確かめずにはいられなかったほどに。

 マンションの階段を昇りながら、中沢は部屋に残してきた鴻の容体を気遣う。少しは人間に戻っただろうか。

 本当なら側についていたかった。だが、自分が側にいれば無理にでも平静を装うとするに違いない。少なくとも仕事の段取りを確かめるまでは、休めと言ってもきかないだろう。弱みを見せるのを嫌う男だ。気力が続く限りは、無防備な姿を人前に晒すような真似はしない。だから一人で出かけたのだ。

 大道寺の影のないあの部屋でなら、少しは使命とやらを忘れて寛いでくれるだろう事を期待して、置いてきた。自分には鴻を癒せるような特別な力など何もないと判っているからせめて静かな時間を与えてやりたかった。

 誰にも邪魔されず心を解放できる一時があれば、人間に戻ると知っていたから。


 ――仕事の話は忘れてくれないか。お前に会うための口実だったんだ――


 数年前までの自分なら、躊躇うことなくそう言って、ベッドへ直行していたところだが、めったに会えなくなってしまった近頃では、「大人の分別」という奴が邪魔をして、思うようには口説き文句も出てこない。

 本気の、しかも同性からの肉欲込みの愛情など、本来ならば嫌悪感を抱かれて当然なのだ。ましてや相手は鴻である。世間一般の恋愛感情でさえ理解し難いモノとしてしか捉えることのできない彼の本心はどう思っていることか。

 もしかしたら最初から何も感じていないのかもしれない。
 男の肉体というのは外的な刺激で反応するのだ。
 いくら身体が感じているように見えても、心はそこには無いのかもしれない。

 初めて鴻の肌に触れた夜を思い出す。

 まだ酒に強いとバレてはいなかった頃、酔ったフリをして押し倒した。



 ――女とヤルよりイイらしいんだ。物は試しってことで、相手してくれよ――



 無理強いするつもりなどなかった。拒まれても酒の上での戯れ事と思ってくれるように、本当の気持ちは告げずにそう言った。

 嫌われたくはなかった。
 だから鴻がイヤだと言ったなら、すぐに笑って冗談にするつもりだった。

 だが、鴻はあきれたような顔をしただけで何の抵抗もしなかった。時折苦痛にゆがんだ顔で声を殺していたけれど、最後まで拒むことはなかったのだ。

 しばらくしてある種の密教にはその類の修行もあると知った。
 その中には陰陽道も含まれていたのだ。

 もう、「本気だった」とは言えなかった。

 あの時からずっと中沢の気持ちは変わっていない。人の区別がつかないと呟いていた鴻に、自分だけは見分けて欲しいと願い続けていた。そしてまた、あの時からずっと、鴻の態度も変わってはいない。

「まだ飽きないのか」と、あきれたように言うだけで拒むことはない。
 拒まない、黙って受け入れるだけ――

 だから中沢は今も言えずにいる。
 仕事のために鴻と関わり続けているのではなく、鴻と関わり続けるためにこの仕事を選んだのだとは。

 自分の部屋のドアの前で現実に戻った中沢は、かなわぬ願いを振り切るように思いきりドアを開けた。リビングにいるであろう鴻の方を見ないようにしながら、キッチンに直行し、冷蔵庫の中に、言葉に出来ない想いと袋の中身を一緒くたにして放り込んでゆく。

 深い溜息とともに冷蔵庫の扉を閉めると意を決したように立ち上がり、いつもの自分らしく声をかけようとリビングへ向かう。


 だが、そこに鴻の姿はなかった。


「……え? ……鴻?」

 玄関にはきちんと靴が揃えられていた。
 部屋を出た形跡はない。
 が、鴻の場合、それが存在の証拠には成り得ない。
 別の次元へと姿を消してしまっても何の不思議もない男なのだ。

 出かける前の鴻の様子を思い出す。

 車で移動する間にいくらかましになったとはいえ、気配のない幽霊が実体のある蝋人形になった程度だった。

「ま、さか…! ウソ…だろ?」


 思考が停止する。
 浮かんでくるのはいつか見た悪夢。
 振り返りもせずに消えてゆく漆黒の髪を流した白い背中。

 現状を把握できずに叫び出しそうになる中沢であったが、かすかな水音を耳にして、ようやく現実的な可能性に思い当たった。

 リビングに居なかったからといって慌てることなどないのだ。
 この部屋には洗面所もバスルームもあるのだから。

「ははっ…。何を焦っているんだか」

 くしゃくしゃと髪をかきむしり眼鏡を持ち上げると、帰宅した事を告げるため水音のする位置を確かめた。

 バスルームのようだ。シャワーを使っているらしい。

 珍しい事もあるものだ。
 自分がいない間にシャワーを浴びるとは。

 鴻が自分より先にバスルームに居る。ただそれだけのことなのに、もしかして、などとあらぬ期待をしてしまう自分があまりにも情けない。苦笑を浮かべた中沢がリビングに戻ろうとしたその時、バスルームから大きな物音が聞こえた。

(倒れたのかっ!?)

「おい! 大丈夫かっ?」

 あわててバスルームに飛び込むと、シャンプーのボトルを手にした鴻が「人間の顔」をして立っていた

「? …これを落としただけだ。何をそんなにあわて……っ! 中沢!?」

 中沢は服が濡れるのも構わず鴻を抱き締めていた。
 いつもの鴻に戻っている。
 実体を確かめるようにしっかりと両腕で包み込み首筋に顔をうずめて口づけた。

「………莫迦。がっつくんじゃない。格好つけて一人で出ていったのはお前だろう。私を置き去りにしたのは自分の方だとわかっているのか?」

 いつになく非難がましい口調で文句を言う鴻に、中沢は面食らった。

「置き去りって、お前。俺は……」

 上目づかいに見上げてくる顔がうらめしそうに見えるのは錯覚だろうか。
 一人にしたことを怒っているように思える。
 もしや側に居て欲しいと、思ってくれていたのだろうか。

「脱いでこい」
「え?」
「そのままシャワーを浴びる気なのか? さっさと脱いでこいと言っているんだ」

 中沢は自分の耳が信じられなかった。
 鴻の方からこんな風に誘い文句を口にするなど今まで一度もなかった事だ。

「い、いいのか? お前いつもはベッド以外の場所は嫌がるのに?」
「誰がここで相手をすると言った。勘違いするんじゃない。私はもう出るから後を使えと……おい」

 驚きのあまり力を緩めていた腕の中からすり抜けようとする鴻を、中沢は再び抱き寄せて耳元で囁くように尋いた。

「シャワーを浴びたら…ベッドの中でなら……。……いいのか?」

 背中に回された中沢の腕がかすかにふるえている。腰を押し付けてこないのは、すでに臨戦体制に陥っている下半身を悟られないようにするためなのだろうか。隠さずとも、激しすぎる胸の鼓動がすべてを物語っているというのに。

「お前の誘いを、私が拒んだことがあったか?」
「いや。でも……」

 最後の方は言葉になっていないのかよく聞き取れない。

「でも、何だ? 不満があるなら言えばいいだろう。背中でも流して欲しいのか?」

 ふいに身体が離れた。顔を上げるとそのまま唇を塞がれる。
 欲情を煽る「キス」ではない。
 真剣な想いのこもった「くちづけ」だった。

 中沢の「想い」が唇から伝わってくる。まるでさっきまで触れ合い交じりあっていた残留思念が、肉体を得て戻ってきたようであった。


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