霊感探偵倶楽部・姉崎探偵事務所シリーズ

第2話


 鴻の予想通り、中沢は慌てふためいていた。
 が、それは取材のスケジュール調整や宿の手配の為などではなかった。

 そもそも始めから取材の予定など存在しない。以前にも増して連絡の取り辛くなった鴻を心配し、半ば無理矢理休暇をとらせようと思ってのニセの取材旅行の計画だったのだ。

「鴻の奴、なんだってんだ一体……」

 ブツブツと独りつぶやきながら愛用のシステム手帳をめくるが、白紙のページを見つめていても文字がひとりでに浮き出て予定が埋まるわけではない。

「まいった……」

 ローソファーにだらしなく寝そべり、開いたままの手帳を顔にのせる。
 目の前の暗がりに鴻の黒髪を連想したのか先程の電話のやりとりが思い出される。

 徹夜で仕上げた原稿を朝イチで担当者にメールで送りつけ、微睡み始めた矢先の電話であった。いつもの中沢なら留守録に切り替え無視するところだが、今日に限ってそんな気分にはなれなかったのだ。

 そこまで思い起こして はた、と気付く。

 「いつもの中沢」を鴻はよく知っている。


 だから


 「いつもの鴻」ならば。



 依頼人とのアポイントメントがあるわけではないのだ。現場の下見の日程変更程度の用件で、寝てると承知のこんな時間に電話などかけてはこないはずなのだ。

 何かあったのかもしれない。

 そういえばやけに疲れた声をしていたような気がする。

 一旦思い付いてしまうと、もう不安を打ち消すことができなくなってしまった。



 ――取材の件、明日からに変更できないか? ――



 鴻は申し訳なさそうにそう切り出したのだ。 
 いつもの感情の薄い事務的な口調ではなかった。
 その時点で気付いてやるべきだったと中沢は悔やんだ。

 弱音など吐いたことのない男だ。
 仕事も自分との約束も平等に扱ってくれていた。
 無いに等しい休日を中沢の依頼の為にあててくれていた。

 「忙しい」と断られることはあっても「疲れてるから」と言われたことはない。そんな素振りを見せたこともない。なのに今朝の電話の声は……。

 ソファーから飛び起き電話に手を伸ばす。
 自宅に戻るのは夜と言っていたが構わない。

「俺だ。今から行く」

 留守録にそう告げると部屋を飛び出していった。

(俺を、呼んでくれたと思っていいよな?)

 はやる気持ちを抑えながら車に乗り込み、かつては足繁く通った道のりを走り出した。





◆◆◆◆◆




 鴻はローソファーの背にゆったりと身体をあずけてまどろんでいた。
 西に傾きはじめた太陽があたりを薄紅色に染めようとしている。

 予定を早めて欲しいと連絡したのは今朝だった。
 一体何を思ったのか 血相を変えて迎えに来た中沢は、鴻の顔を見るなり、有無を言わせず車に押し込み自宅のマンションに連れ込んだのだ。

 テーブルの上にはイオン飲料のペットボトルと栄養補助食品の入った黄色い箱が置かれている。

 心優しい誘拐犯は、強姦魔にまでなる気はなかったらしく、空っぽの冷蔵庫から非常食を押し付けただけで鴻を残して買い出しに出かけてしまっていた。

 食欲などまるで感じていなかった鴻であったが、とりあえず一口だけでも食べておかないと中沢の眉間のシワがますます深くなってしまうのは明白であった。

 あまり気は進まなかったが仕方がないと黄色い箱の中身を取り出し食べてみる事にした。

 ぼそぼそとして唾液が吸い取られるような食感には閉口したが、幸い生き物の悲鳴は聞こえない。イオン飲料で流し込むようにして飲み込んで、どうにかひとつ食べ終えた。

 ほっと息をつき辺りをみまわす。

 部屋のそこかしこに漂う中沢の残留思念が、昨日までの彼の生活を物語っている。
 締切直前の原稿でも抱えていたのだろうか。
 時間に追われる切迫した感情や思うようにいかないいらだちが、ジグソーパズルのばらけたピースのように散らばっている。

 全部のピースを組み合わせたなら、中沢高志という男がもう一人出来上がりそうなほど、そこには様々な感情の欠片が落ちていた。

 ぼんやりとそれらを眺めていた鴻は、見覚えのあるイメージを見つけて視線をとめた。注意深く探ってみると、そのイメージは一つだけではなかった。部屋中に散らばる残留思念のどれをとってみても同じイメージが貼り付いている。

 暗闇に浮かぶ白い横顔。闇にとける長い髪。
 瞳孔と光彩の区別がつかない闇色の瞳は何を見つめているのだろうか。
 視線の先が遠い。

(わたし、なのか?)

 ただ眺めるだけでは見落としてしまいそうなほど小さく、だがくっきりと残るそのイメージは鴻の姿であった。

 固く結んだ唇は、見られることを拒んでいるかのようだ。
 中沢の目には自分はこんな風に見えているのかと思うと不思議な気がした。

 拒んでいるつもりなどない。中沢の視線を煩わしいと感じたことなどないのに、なぜ彼の記憶に残る自分はこんなにも遠いのだろう。

 ソファーに残る"想い"をたどる。

「中沢……」

 鴻の呼びかけに応えるように中沢の"想い"が集まってきた。
 力を使ったわけではない。名を呼んだだけだ。
 ただそれだけのことなのに、"想い"は鴻を包み込む。

(わたしが呼ぶのを待っていたのか? ずっと?)

 "想い"の欠片はひとつに集まり見知った男の姿になった。
 男の手が鴻の頬を撫でる。
 ささくれ、ひび割れていた魂を撫でられたような気がした。

 乾いた大地に水が染み込むように、中沢の"想い"が染み込んでくる。

 鴻は目を閉じて己の精神の檻の入り口をそっと開いた。

「なかざわ……」

 もういちど名を呼ぶと、剥き出しの魂で「彼」を迎え入れた。



 夕闇が降りてくる。
 鴻の頬を染めるのは、残照なのか、それとも―――


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