霊感探偵倶楽部・姉崎探偵事務所シリーズ

  魂鎮め  

第1話


「はい。はい。少々お待ちください」

 初老の男がていねいな口調で電話の応対をしている。
 落ち着きのあるその物腰は、どこぞのお屋敷の執事と言っても通りそうだ。
 
 相手が目の前にいるかのように頭を下げると、保留ボタンを押して振り返り、ソファーでゆったりと茶を飲んでいる、黒髪を長くのばした男に声をかけた。

「鴻さん。明日からの依頼の件ですが……」
「明日の午後2時に伺う約束になっていますが。何か、ありましたか?」

 鴻、と呼ばれた男は一瞬あたりの気配をうかがうように視線を細くしたが、すぐに何事もなかったように表情を消し去り、男に向き直った。

「溝口さん? 依頼人の身に何か?」
「あ、いえ、そうではありません。何か急な出張が入ったそうで、
 約束の日時を1週間程先に変更して欲しいとの事なのですが……」
「そうですか。……わかりました。では、そのように手配をお願いします」

 鴻は眉根を寄せて少し考える仕草を見せたが、大事には至らないと判断したのか、予定の変更に同意した。

「よろしいのですか? 来週は予定がおありだったのでは?」
「私用ですから。予定を入れ換えれば済みますので……」
「わかりました。では、そのように」
「お願いします」

 鴻は口元にかろうじて笑みととれる程度の表情を浮かべると、電話に戻る溝口に軽く会釈をして席を立った。




◆◆◆◆◆




『なにぃ!? 予定を繰り上げろだぁ? しかも、明日からにしろだと!?』

 “私用”の相手は予想通りの勢いでまくしたててきた。

「仕方がないだろう。事情が変わったんだ。無理なら護符を渡すから、それを持って……」

『ちょ、ちょっと待て! お前が来てくれないんじゃ話にならん!
 ……わかった。なんとかするから……。
 時間はあとでこっちからかけなおす。夜は? そこにかけてもいいのか?』

「いや。一旦家に戻るから……」

『わかった! じゃな!』

 鴻の返事を最後まで待たずに少々乱暴に電話を切ったかつての同級生は、突然の予定変更の申し出に驚いたようだった。

 それもそのはず、鴻はこれまで一度「行く」と約束したならその日時を違えたことなどなかったのだ。しかも先送りにするならまだしも、よもや前倒しにしろなどと言うとは、思ってもみなかったに違いない。

 普段から半ば無理矢理引きずり出しているという自覚のある彼にしてみれば、まさに青天の霹靂のはずだ。

「相変わらず、落ち着きのない奴だ……」

 慌てふためく友人の顔を思い浮かべた鴻は、呆れながらもその口元は薄く微笑っていた。

 この前彼に会ったのは、いつだったろうか。

 つい最近のような気もするし、かと思えばもう何年も顔を見ていないような気もしてくる。ここのところ長時間にわたる術を使うことが多かったせいかひどく記憶が曖昧になっているようだ。

 疲れているのだという自覚はある。

 東の頭と呼ばれた師匠の大道寺忠利が姿を消し、後継者であったはずの彼の息子・竜憲もまた、不慮の事故によってその消息は絶望視されている。

 新たな後継者を迎えるまでは、一番弟子である自分が残された弟子達をまとめ大道寺を支えていかなければならないこの状況では、以前のように道場に篭り、人に非るものどもの相手だけをしていればよいという訳にはいかなくなっていた。

 人前に出る機会が増えれば増えた分だけ己の神経がささくれだち、すり減ってゆくのがわかる。 睡眠をとることで回復するとはいえ、近ごろではゆっくりと眠ることすらままならない状態が続いていた。

 いっそのこと力を使い果たして"冬眠"してしまおうかと考えた事もあったが、その間の大道寺の惨状が予想できるだけに実行するわけにはいかなかった。だがこのままでは、望むと望まざるとに関わりなくそうなってしまうかもしれない。その不安が中沢との予定を早めるきっかけになっていた。

 鴻にとって唯一といってもいい友人である中沢は、高校時代の趣味を実益に変え、現在オカルト部門を得意とするフリーのルポライターとして働いており、霊能者である鴻にちょくちょく意見を求めてきたりするなど、なんだかんだと付き合いが続いている。

 2年遅れで高校に入学した鴻を何の偏見ももたずに友人として接してくれたのは彼だけであった。鴻にとって中沢と過ごすひとときは自分は「まだ」人であると実感できる貴重な瞬間であった。

 今回は取材候補の場所の下見だと言っていたから自分の役回りは、お守り程度のはずだ。"大道寺忠利亡き後、当代一の霊能力者"などというバカげた肩書きも、大仰なおはらいも必要ない。世間話の合間に危険か否かを断じてやればいいだろう。

 そう考えるだけでも気が楽になってくる。

 万が一何かが起こったとしても、中沢は鴻を怖れない。
 それが何よりもありがたかった。

 例えウロコの浮き出た肌を晒すことになっても好奇心旺盛な友人は、喜々としてその手を伸ばしてくるだろう。

 もっとも、ウロコがなくとも手はのびてくるのだが。

 文机の上を手早く整え、引き出しから自宅の鍵を取り出した。
 待つ人などいないそこは、いつもならただの箱でしかなかったが、今日の鴻は一刻も早く帰りたいと思っていた。

 中沢からの連絡は夜になるはずであったが、思い込みだけのくだらぬ依頼の客が来る前にさっさと逃げ出すことにした。

 事務所には、自宅には着替えを取りに寄るだけですぐに出かけることになったと言いおいてきた。宿に着いたらこちらから連絡を入れるから、とも。
 
 これならば余計な連絡は入らない。
 携帯電話など持つだけ無駄だというのは周知の事実である。

 門をくぐる足取りが軽い。
 現金なものだと苦笑しながら鴻は呼んであったタクシーに乗り込んだ。

 シートに身を沈め目を閉じる。

 中沢は今ごろスケジュールの調整に追われているかもしれない。ぶつぶつと文句を言いながら手帳をめくる彼の姿が、瞼の裏に浮かんでくるようだ。

 仕事が早く片付いたなら、久しぶりに酒でも飲みかわしたい。
 無駄話をしながら朝を迎えるのもいいだろう。
 そうではない朝を迎える可能性の方が高いような気もしないではないが、それならそれで構わないとも思う。

 疲弊しきった魂が、ぬくもりを欲しているのかもしれない。

「中沢……」

 鴻は救いを求めるように友人の名をつぶやいていた。

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