波の音が聞こえます
海の水がしょっぱいって
本当だったんですね
◆◆◆◆◆
そこは、砂漠に埋もれた基地だった。
カモフラージュの為といえば聞こえはいいが、周囲に遮るものなど何もないこんな場所では、地下にでも潜っていなければ、完全に隠す事など不可能だった。
週に1度物資の補給に行くというトラックに便乗した青年は、基地の搬入口の砂を慣れた手つきで掃いている『レプリカ』の姿に目を留め小さく舌打ちした。
――“後片付け”を頼むよ――
卒業したての新米士官に渡された辞令は、砂漠地帯の真ん中の、老朽化により閉鎖の決まった基地への出向であった。
コウ・ヒジリ。
かつて魔族との共存を訴え時の政府に異を唱えた男の息子は、父と、父の愛した魔族達の暮らす村の自治と引き換えに、軍へと身を置くことを強いられていた。
魔族の持つ特異な能力と不老不死に近い肉体は、ヒトにとって恐怖であり羨望であった。
父の時代、魔族は恐怖の対象であり、滅ぼすべき種であった。
だが医学の進歩が行き詰まり、ヒトの力だけでは不老不死の実現は困難であると判断した権力者達は、魔族を支配下に置き、その生態を見極めようとやっきになりだしたのだ。
――この命が尽きる前に、永遠の若さと命を!――
コウの時代、軍の目的は魔族討伐から捕獲へと変貌し、捕らえられた魔族は専門の研究機関へと送られ、その身を切り刻まれる事となった。
コウにとって、父も父と暮らす魔族の男もどうでも良かった。
コウが守りたかったのは、その土地そのものだったのだ。
大人になったら迎えに行くと約束を交わした魔族の少年は、その土地のとある場所の樹の中で、今も眠りについているはずだ。
約束の時は来ていた。
コウはすでに成人の年齢に達し、ヒトの世では大人として認められている。
だが迎えに行けばあの少年は狩られてしまう。
あの少年を連れ出し、世界を敵に回して生き延びられるだけの力が今の自分には無いことを、コウは嫌と言うほど判っていた。
自分がここに居る限り、あの土地は守られる。
ならばその間に力を、少年を守り通せるだけの力を手に入れるのだと、コウは決めた。
黙々と訓練をこなし高い成果を上げるコウに、薬物によるさらなる肉体強化のプログラムが組まれた。拒む事もできたそれをコウは自ら受け入れ、その結果、彼は特異な任務を帯びて、この砂漠の基地へと赴く事になったのである。
トラックが砂埃を上げながら搬入口へと向かう。
警備の担当らしき者が運転手と積荷の確認をしている間にトラックから降りたコウは、近くに居た『レプリカ』の少年に声を掛けた。
「今日から配属になったコウ・ヒジリだ。着任の挨拶はどこへ行けばいい?」
◆◆◆◆◆
着任の挨拶を終え、与えられた私室で荷物の整理をしていたコウの下へ、先ほど案内をしてくれた『レプリカ』の少年が、いくつかの書類と備品とおぼしき物品の入った箱を持って現れた。
だが、少年は部屋の入り口で突っ立っているだけで、中に入ろうとはしない。
「……いいから、入れよ。用があるから来たんだろう?」
「し、失礼しますっ!」
両手で抱えた荷物を持ち直し深々と一礼した少年は、大きく一歩部屋の中へと踏み込んだところで再び直立不動の姿勢をとった。
「いちいち堅っ苦しい奴だな。荷物をここに置いてドア閉めて来い」
「はいっ」
コウが指し示した場所に正確に箱を置いた少年は、素早く踵を返すと静かにドアを閉め、その場で待機の姿勢を取った。大した広さがあるわけではないが、話をするには不自然な距離だ。
うんざりしたような顔で溜息をついたコウは、少年を手招きした。
弾かれたように近付いてくる少年の腕を掴んだコウは、少年の身体をベッドの上に放り出した。
少年の顔色が青ざめ、表情が強張ったのを見て取ったコウは、口の端で薄く笑った。
「勘違いするな。余分な椅子なんてないからな。ソファ代わりに座っとけ」
「あっ……で、でも!」
「座れ」
陵辱の予感を見透かされ、あっさり否定された少年は、今度は羞恥に頬を染めて俯いた。
命令とはいえ上官のベッドに座るというのは居心地が悪いのか、もぞもぞと腰を浮かしては座り直している。
どうにかベッドの端に腰を落ち着けた少年は、きちんと揃えた膝の上に両手を置き、背筋を伸ばした。
「お前、名前は?」
「はい。シグ、と呼ばれています」
入り口脇の簡易キッチンでケトルが音を立て、湯が沸いた事を告げた。
立ち上がりかけた少年を手で制したコウが、慣れた手つきであらかじめ挽いてあったコーヒーの豆をフィルタに入れ、湯を注ぐ。狭い室内いっぱいにコーヒーの香りが漂う。
その芳香に、シグと名乗った少年の表情がほんの少し和らいだ。
白いコーヒーカップと、野外携帯用の、持ち手にラバーのついたアルミのカップ。
コウは二つのカップを並べると、均等にコーヒーを注いだ。
「ミルクと砂糖は ?いるか?」
「あ、と、ミルクひとつに砂糖は二つ……はっ!」
自分の立場を思い出したシグは真っ青になって口元を抑えた。
「ミルクが1に砂糖が2…と。ココアかホットミルクの方が良かったか?」
うろたえるシグを気にも留めずにコウがシグに差し出したのは、白いコーヒーカップだった。
コウの笑顔につられてカップを受け取ってしまったシグは、驚いた表情でカップとコウを見比べていた。
「なんだ? 熱いのも駄目か?」
「い、いえ……」
「なら飲めよ。書類は今目を通すから」
「……いただきます」
「おう」
アルミのカップを持った手を軽く持ち上げて答えたコウは、足元に置かれた箱の上の書類の束を手に取った。デスクの端に腰を預け、コーヒーを飲みながら寛いだ様子で書類に目を通すコウは、シグに背を向けたりはしなかった。
身体はシグに正対したままで、書類と箱の中身を見比べては小さく頷いている。
「あ。美味しい……!」
コウの姿をぼんやりと眺めていたシグは、口に含んだコーヒーの旨さに驚いた。
普段口にしているコーヒーのような嫌な刺激や酸味が残らない。
何度も確かめるように口に運んでいると、あっという間にカップは空になってしまった。
「お前、普段は一体、何を飲んでるんだ?」
半ば呆れたような、けれどどこか嬉しそうな響きの声に視線を上げると、コウの顔が目の前にあった。
「もう一杯飲むか?」
自分はそんなに物欲しそうな顔をしているのだろうか。
勢いよくぶんぶんと首を振ったシグは、またも自分の態度が上官に対するものではなかったと後から気付き、慌てて取り繕うとするが、コウはその仕草が気に入ったらしい。
ニッコリと笑いかけぽんぽんとシグの頭を軽く叩くと、空のカップを受け取りデスクの上に置いた。
その笑顔に、シグは自分の鼓動が高鳴る音を聞いた。
since2002 copyright on C.Akatuki. All rights reserved.