◆◆◆◆◆
透明なガラス容器に赤い液体がパタパタと零れ落ちた。
液体が容器の底を覆うほどの量になると、もう充分だというように容器の縁に手がかざされた。
「すまないね」
セキエイは容器を手に取ると、そこに透明の液体を注ぎ込んだ。
ほんのりと赤味を残す程度にまで薄められた溶液を眺め、ぽつりと呟く。
「こんなに……痛々しい状態で残ってるなんて思わなかったから、さ」
それは発情してしまったグリンを宥める為に篭った部屋の床下部分にあった。
グリンを先に一人で焔の元へ行かせたのも、これを見せたくなかったからだ。
一度は隠した床の扉を再び開き、セキエイは底へと降り立ちライトを点けた。
「50番台……」
左手首にタオルをあてがい、止血をしながら扉の縁に屈んだコウが呟いた。
容姿はグリン同様ヒトに近いが、その皮膚は緑色で四肢の先端や頭髪は植物そのものという異形の亡骸が打ち捨てられていた。おそらく緑化の過程でゲノムにトラブルが生じたのだろう。根となるべき下半身部分がヒト型のままのものが多かった。
「それだけで足りますか? なんならもう少し持ってっても……」
「充分だよ。これ以上一度に抜いたら貧血起こすよ?」
「ラボじゃ毎回400mlを日に3度は抜かれますがね」
「そんなに撒き散らしちゃ、グリンやシグにも影響があるかもしれないだろ。大丈夫だよ」
セキエイは霧吹きのような容器にコウの血を薄めた液体を移すと、目の前の亡骸にむけて吹きかけた。
雑草を引き抜き捨てるような感覚で扱っていたのであろう。
幾重にも折り重なった亡骸は、上から無造作に放り投げられ積み上がったものだった。
コウの血を受けサラサラと崩れ始めた骸の山を、セキエイは黙って見つめていた。
最期を看取るような切なさを漂わせていたその視線が、ふいに険しいものへと変わる。
「――っ!」
嗚咽を堪えるような息遣いを耳にしたコウが気を利かせて背を向けた刹那、機関銃の斉射音が響いた。
「博士ッ!?」
慌てて振り返り、地下を覗き込んだコウが目にしたのは、かつて凶戦機と怖れられた男の姿であった。
仁王立ちで両手に銃を構える後姿は、憤怒とも憎悪ともつかぬ禍々しさに満ちていた。
左右の手に握った銃が吐き出す弾幕が、骸の山を撃ち崩してゆく。
床に当たった弾があらぬ方向に跳ねるのも構わず、セキエイはひたすら撃ち続けていた。
コウは掛ける言葉を探しあぐねたまま、その背中を見つめる事しかできなかった。
タタタタ……と響く銃声はいつまでも続くかのように思えたが、弾が尽きたのかぱたりと止んだ。
立ち篭める硝煙の臭いはどこか懐かしく、苦々しい。
「ロン、おじさん……」
常とは違うコウの呼びかけに我に返ったセキエイは、弾が尽きても構えたままだった両手を下ろし、深い溜息をついた。黙って差し伸べられた手を力の無い笑みで見返し、その手を取らずに戻ってくると、閉ざした扉をそっと撫でた。
悼む気持ちも無ければ弔いの言葉を手向けるつもりも無い。
ヒトである自分に、そんな資格があるはずがないのだから。
朽ち果てた彼らに、感情が無かった事を祈るだけだ。
沈黙を守ったまま傍らに佇むコウに、セキエイは心の中で感謝を捧げた。
親友の一人息子は、こんな時、父親とそっくりな行動をとる。
ゆっくりと立ち上がり、面差しが似通い始めたその顔をしばし眺める。
「キミにはいつも、みっともない姿ばかり見られてる気がするよ」
「まぁ、6:4ってトコじゃないですか?」
「ははっ、言ってくれる」
苦笑いを浮かべながらも、懐かしむような眼差しをしていたのだろう。
コウが訝しげに、ほんの少し首を傾げる仕草を見せた。
「ああ、ごめん。なんかね、一瞬タキを思い出したよ」
父の名を聞いた途端にコウの眉間にシワが寄り、嫌悪の情が露わになった。
「そこまで嫌がらなくてもいいだろう?」
「嫌なんじゃない。嬉しくないだけです」
「昔はとうさま大好きっ子だったのに」
セキエイの顔が覗き込むようにコウに近付いた。
反撃を試みようと開きかけたコウの唇は、一瞬後には噛み締められ、すぐに別の言葉を紡ぎだした。
「……銃声に軍の奴らが気付いたかもしれない。見に行ってきます」
困ったような、呆れたような、そしてどこか淋しそうな微かな笑みを残してコウは背を向けた。
その背に、少年の日のコウの姿が重なって見えた。
ヒトも物も欲しがらない、諦めたように笑う少年だった頃の姿が。
「言ってくれなきゃ判らないよ、コウ君……」
上手い言葉が見つからずに言葉にするのを諦めたのか、言っても無駄だと思われたのか。
打ち解けたと思った瞬間にすり抜けていってしまうのは、自分の言葉が彼にとって痛いところを突いているせいだと自覚していても、やはり淋しいと思う。セキエイにしてみれば、そんな時こそ、ムキになって食って掛かってきて欲しいのだ。
「頼むから、サキ君の前でまで、そんな風に笑うのはやめてくれよ……」
小さな小さな、けれど本音の呟きだった。
「呼びました?」
「サキ君っ!?」
声になるかどうかの囁くような言葉の中から自分の名前を聞き取ったサキが、ひょいと顔を覗かせた。
「ガス抜きできました? 結構派手にぶっ放してたみたいですけど」
「ガス抜きって、僕は……」
そんなつもりじゃなかったと言おうとして、セキエイは言葉を止めた。
黙って待っていれば砂となったはずの亡骸を、あえて粉砕したのだ。
そう思われても仕方が無い。
技術の進歩のためという大義名分を免罪符に、己の欲を満たす科学者たちへの憤りがあった。
その欲を満たした結果のひとつに、今の自分の身体があるという皮肉への葛藤も。
打ち棄てられた亡骸に、自分ために犠牲となった部下たちの姿が浮かび、同時に、いつかくるであろう己の末路が見えたような気がしていたたまれなくなった。
「そろそろ向こうへ行きましょう? さっきのアレで、みんな戻ってきちゃいましたから」
いっそ今ここで、自分に銃口を向けてしまえばいいのだと思い始めた脳内を、サキの声が横切った。
「早くしないと、グリンが駆け込んできちゃいますよ。顔、元に戻してくださいね?」
言われてようやく、頬や眉間に強張りがあることに気付いたセキエイは、大きく息をついた。
相当凶悪かつ悲愴な面構えをしていたのだろう。
労わるべきか叱咤すべきか迷っているような、中途半端な表情を残したまま、サキは困ったように笑って出入り口ヘと背を向けた。
「駄目だなぁ、僕は」
天井を仰ぎながら漏らした呟きに、サキからの答えは無い。
視線を戻せば、開け放たれたドアの向こう、サキの背中越しに緑色の髪が揺れるのが見えた。
銃声を聞きつけ、さりとて拘束した男を放置も出来ず、牛でも引くようにして戻ってきたらしい。
手にした蔓の先に括られている男が動こうとしないせいで、こちらに来ることができないようだ。
安否を気遣うグリンの声が、セキエイの名を呼んだ。
サカキやシグの声も近付いてくる。本当に全員が戻ってきているようでやたらと騒がしい。
一気に流れ込んできた現実の喧騒に、思考だけでなく五感までもが外界を遮断していた事に気付いたセキエイは、軽い目眩を覚えて青褪めた。
「だから、サキ君が迎えに来たのか」
シグのように、負の感情に流されかけていたようだ。
グリンを通じて儀式の様子を探っていたのだから、当然といえば当然の結果なのだろう。
だがシグと同様に直接耳にしていたはずのグリンは、ほんの少し昂ぶっただけで済んでいる。
シグと自分と、グリンの何が違うのか。
深く考えるまでもなく思い当たった事実に、セキエイの眉間にシワが寄る。
グリンは以前、サキと身体を繋げたことがある。
大袈裟な表現をすれば、グリンはすでにラセンの加護を受けているといったところだろうか。
筋違いの嫉妬に囚われかけたところで、不機嫌極まりないコウの声が耳に届いた。
「いい加減、こっちに戻ってくれませんか。あいつら無駄に面倒くせぇ」
なんとかしてくれと視線で訴えられたセキエイは、慌てて彼らの元へ戻っていった。
◆◆◆◆◆
「えーっと、全滅?」
結局グリンが焔を捕縛した部屋へと全員で移動し、車座に腰を下ろしての報告会と相成った。
我先に報告したがる面々から必要な情報をかいつまみ、要約したセキエイの結論がこれである。
「カルトな連中は、ですがね」
「面目ねぇ」
セキエイの正面に陣取ったコウが仏頂面を隠しもせずに、吐き棄てるように言い放つ。
サクヤと遭遇し、まんまと一杯食わされ無傷で戻ったサカキは、コウの左手側で小さくなっていた。
「ご無事で何よりです、大佐」
寄り添うように座ったシグが満面の笑みで労えば、縮こまったサカキの背中がほんの少し伸びた。
「と、とりあえず、軍の連中は外に出しといたからよ」
「いてもいなくても大差ない下っ端だけな」
「う……」
本来ならば自分の隣に座るはずのサキが、シグとセキエイの間に居るせいで、コウは機嫌が悪かった。
儀式の悪影響を受けた二人を気遣っての事と判ってはいるが、やはりかなり面白くない。
彼らの横にはそれぞれの相方が張り付いているのだ。そこまでしなくてもと思わずにはいられない。
「まあまあ、コウ君。とりあえず邪魔者はいなくなったわけだし、ね?」
「一番面倒なヤツがうろついてるんですが?」
「ここへ来たお目当てはサキ君じゃないんだし、行き先は一緒かもしれないけど大丈夫だと思うよ」
「だが、あいつはサキを連れて来いと、コイツらに……」
サカキとシグを睨みつけるコウに、セキエイは諭すように言葉を続けた。
「だからだよ。サクヤ君はここの調査が終わったら連れて来るように言ったんだろ?」
視線を向けられたサカキがこくこくと無言で頷き返す。
「だったら、ここの調査を見届けた後のサキ君に用事があるんじゃないのかな?」
「この遺跡とサキが、何か関わりがあるとでも言うんですか?」
「サキ君個人というより、ラセンの一族と、だけどね」
この地域は僕の担当だったんだよと続けるセキエイに、コウは、ああと頷いた。
一般人の意識からラセンの存在を遠ざける為に、軍はかつて秘密裡に隠ぺい工作を行っていた。
コウとセキエイも、その作戦に従事していた過去がある。
「きっちり砂の下に沈めたんだけど、どういうわけか出てきちゃったから、さ」
「原因究明が、今回の調査の目的というわけですか」
「うん。それと、後片付けも、かな? 片付ける物なんて無いはずだったのにね」
辛そうに頬をゆがめるセキエイの肩に、サキがそっと手を添えた。
ぽんぽんと肩口を軽く叩き、柔かな笑みをセキエイへと向ける。
サキの気遣いに応えるように、セキエイの表情が柔くなった。
「ありがとう。僕は大丈夫だから、その笑顔はコウ君に向けてあげてくれるかな?」
「俺は、別に」
「コウ」
隣に居なくてごめんねと、サキの瞳が申し訳無さそうに揺れた。
「真に受けるな、莫迦」
判っているからと頷き返していると、サキの唇が小さくあっと動いた。
「? っと!」
焔の膝で眠っていたはずのラセンの少年が、いきなり肩に伸し掛かってきた。
驚くほど軽く、痩せた身体は振り払うのを躊躇わせるほどだ。
間近で目にした翡翠色の瞳は、夢と現の狭間にあるのか、焦点も定まらないまま揺れている。
ぼさぼさの髪、艶の無い肌、窪みに水が溜まりそうなほど浮き出た鎖骨。
清潔そうな服を着て自分で立って動いてはいるが、その表情は、かつてのサキと瓜二つであった。
邪険に扱う気にはなれず、コウは抱き寄せるように少年の腰に腕を回した。
「どうした? 俺の右目が気になるのか?」
睦言のように低く囁く甘い声に、少年の肩がふるりと揺れる。
抱き寄せられるままにコウの腿に跨った少年は、恐る恐るコウの眼帯に顔を近づけた。
コウは頭の後ろの結び目を解き、眼帯を外した。
ゆっくりと開かれた右の瞼の奥を覗いて息を呑んだのは、少年を連れ戻そうと寄って来ていた焔であった。
「右目に……封印石?……ッ!? 離れろ! 喰われんぞッ!」
奪い取るように、少年をコウから引き剥がした焔は、そのまま背後に少年を庇い身構えた。
「ラセンの村を滅ぼした赤の魔人って、アンタだろ」
低く唸るような声には威嚇の気配が色濃くにじんでいたが、コウは焔の発する剥き出しの敵意を飄々と受け流し、ほんの少し片眉を上げただけで、仏頂面を崩すことなく溜息混じりで言葉を返した。
「否定はしないが、それでなんだってお前が臨戦態勢に移るんだ? 大体喰われるってのは」
「あんたあの村の『礎』を喰ったんだろッ! だから右目がッ! ……え? あれ?」
周囲の空気に、なんとも言えない微妙な雰囲気が流れているのに気付いた焔は、困惑の表情を浮かべながら、この中では一番馴染みのあるグリンへと視線を向けた。
「焔さん、それってどこ情報ですか?」
どうやってフォローすべきか戸惑いながら、グリンが尋ねる。
「どこって……ここまで一緒だった連中が」
軍などどうとでもなるが、赤の魔人にだけは知られてはならないと話していたのだと焔は言った。
ラセンの礎を喰らった魔人はその力を取り込んだものの、駆けつけたラセンの長にヒトの姿に封じられたと。
「だから別の礎を喰らって封を解こうと、ラセンと関わりのあった村を襲いまくってるって」
「なんだそりゃ」
「中途半端に漏れた事実と時系列が入り乱れると、そういう解釈になるんですかねぇ」
焔の語るあまりに斬新な「魔人伝説」に、当事者であったコウとセキエイは呆れ返るしかなかった。
「え? 違うのか? けどアンタさっき否定はしないって」
「俺が赤の魔人と呼ばれてたのは、否定しない。村を襲ったってのもまぁ、その通りだ」
「じゃ、礎を喰ったってのが、ガセなのか?」
「喰った意味による……し、順序が逆だ」
「んだよ、そりゃ。意味判んねぇ」
それはこっちのセリフだと言わんばかりの視線で焔を見据えたコウは、仕方がないと小さく呟きサキを手招いた。
「サキ、全部取っ払って自己紹介してやれ」
「ん。それが一番手っ取り早いもんね」
くすりと笑ったサキは、巻いていたターバンを取り払い髪を下ろすと、ふるりと頭を振った。
蒼にも見える艶やかな黒髪が肩に落ち、形良く尖った耳が現われ焔の視線を奪う。
「……魔族だったのか」
「あとコレね」
俯き加減で人差し指を左右の瞳に順に添える。
コンタクトを外し顔を上げたサキの翡翠色の瞳には、ぽかんと口を開けた焔が映し出されていた。
since2002 copyright on C.Akatuki. All rights reserved.