街道に沿っていくつもの都市が栄え、ヒトと魔族の確執も決定的な訣別を選択するにはまだいくばくかの時間が残されていた頃、ヒトと魔族が睦まじく暮らす小さな村があった。
街道の始まりの街から少し離れた小高い山の中腹に位置するその村は、”ヒジリ”の姓を持つヒトの一族と、魔族でありながら魔を封じる力を持つといわれ、他の魔族からは畏怖の念をもって語られる”ラセンの一族”が共同生活を営んでいた。
村の周囲には豊かな恵みをもたらす森が広がり、ふもとの喧騒も村までは届かなかった。
森を深く分け入った先に、一族の長のみが立ち入りを許されている場所があった。
ぽっかりと開けたその場所に、1本の樹が立っていた。
大人が4〜5人がかりで取り囲み、両手を広げなければ届かないほどの太い幹と、その幹にふさわしく天を覆うように広がった枝葉が、その樹に流れた悠久の時を物語っていた。
「聖なる樹」とも「命の樹」とも呼ばれるその樹の中に、少年はいた。
胎児のように膝をかかえて横たわる少年は、外界から隔絶され、やがて訪れる目覚めの時まで、誰の目にも触れず、誰の声も聞かず、眠り続けるはずであった。
来る災厄をその身に受け入れ、この地を鎮める『礎(いしずえ)』となる為に、心を持たぬ器として、空っぽのままで、その時を迎えるはずであった。
風の詩も、木々の囁きも、少年を素通りしていった。
月の巡りも、季節の移ろいも、少年に影を落とす事は無かった。
それなのに。
一粒の滴が、少年の頬に触れた。
開くはずの無い少年の瞳が開き、世界に色がついた。
(なんかいる?)
身体を起こした少年のすぐ目の前に、茶色い塊が動いていた。
もぞもぞと動くその塊が、自分と同じ形をした生き物の頭部であると気付いた時、生き物は顔を上げ、二つの薄茶の瞳がこちらを向いた。
「かぁさま……?」
(?)
目覚めたばかりの少年には、目の前の小さな生き物――ヒトの子供の言葉は理解できなかった。
手を伸ばし触ろうとしてみたが、子供と自分の間には目に見えない壁があるようで、触れる事は叶わなかった。
「キミはだれ? どうして”かあさまの樹”の中に居るの? かあさまも、そこにいるの?」
『ダ…レ…』
「なあに? 聞こえないよ? 声…でないの?」
『キコ…ナ……?』
少年は、子供の唇の動きを真似て自分も声を出してみたが、声も、外には届かないようであった。
子供の方でも、目の前の不思議な少年が、どうやら言葉を理解していない事に気付いたようで、自分の胸の辺りを片手で示し、少年の顔をしっかりと見つめてゆっくりと唇を動かして言った。
「えーとね。ぼくはコウ。コウってのは名前だよ。コ、ウ。わかる?」
子供がどうやら自己紹介らしきものをしているらしいと感じた少年は、子供を指差し、同じようにゆっくりと唇を動かしてその名を呼んでみた。
『コ…ウ…?』
「そう! ぼく、コウっていうんだ! やった! ちゃんと通じた!」
言葉が通じたのが嬉しかったのか、自分の思い付きが効を奏したのが嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべてはしゃぐコウを、少年は不思議そうに見つめていた。
その笑みを浮かべたままでコウがこちらを向くから、少年もつられて唇の端を上げた。
するとコウの笑みはますます輝きを増したように見えた。
(こうすると、うれしいのか……)
コウと名乗った子供の笑顔が、少年の中に小さな灯りをともした。
「あっ! ぼく、もう帰らなきゃ! ねえ、また来てもいい? ぼくとトモダチになってくれる?」
早口で言われた言葉の意味は判らなかったが、期待に満ちたその顔が笑顔に変わる瞬間が見たくて、少年は、先ほどと同じようににっこりと微笑んでみせた。
コウは、何度も振り返り、転びそうになりながら手を振って走って帰っていった。
コウの小さな背中が森の奥に消えると、少年の周囲は再び色を無くしていった。
(眠らなきゃ…。まだ、起きちゃいけない)
『コ…ウ…』
心を持ってはいけないはずの少年は、胸の奥にあたたかな光を宿して眠りについた。
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