纏いつく悪夢を払いきれずに、コウは声にならない声を上げて飛び起きた。
デスクの上の端末を見れば、時刻は午前2時を少し回ったところだった。
次の仕事の簡単な打ち合わせを終えベッドに入ったのが0時半頃。
2時間にも満たない浅い眠りだったにもかかわらず、コウの全身はシーツに人型がつくほどぐっしょりと汗ばんでいた。
悪夢の内容など覚えてはいない。
だが、原因には心当たりがあった。
今夜は、サキが隣にいない。
出かけているわけではない、単に今夜は自分の部屋のベッドで寝ているだけだ。
サキは陵辱を受けた経験もあってか、それほどSEXに積極的というわけではない。
コウの誘いを拒む事はないが、サキからコウを誘う事など発情期でもない限りありえなかった。
そのせいか、サキは、コウが自分のベッドにサキを誘うのは、SEXを意味するのだと解釈している節があった。そもそも自分の欲望を無理強いしてしまわないようにと、サキに個室を与えたのは自分なのだから、サキがそういう風に思っていても当然ではあったが、それは互いの気持ちを確かめ合う以前の話で、今は、ただぬくもりを感じて眠りたいという夜も多くなっていた。
その事を上手く伝えられぬまま、いつの間にか、SEX抜きの夜は互いの部屋で別々に眠るという習慣が、二人の間で暗黙のルールとして出来上がってしまっていた。
そしてそんな夜に限って、安息の眠りは訪れてはくれないのであった。
浅い眠りの中で、サキのぬくもりを思い出しながらひとり迎える朝が増えれば、触れるだけで満足できたはずの想いも徐々に色濃く、強い感情へと変わってゆくのは仕方の無いことであった。
独り寝の寂しさを埋めるように自身をサキの中に埋め込む行為は、自然と激しさを増すようになり、その分サキの受ける負担も大きなものになる。ベッドに誘うたびに身動きできなくなるほど責めたててしまっては、何もしないから一緒に寝ようと言っても、信じてもらえるはずもないだろう。
「気持ち悪ぃ……」
汗で濡れたパジャマが冷えて、肌に張り付く感触が悪寒を誘う。
ベッドから起きだしたコウは、シーツを剥ぎ取り新しい物に換えると、湿ったシーツを丸めて抱え、バスルームへと向かった。
脱衣所の脇の洗濯籠に、シーツと、汗にまみれたパジャマを、下着もろとも放り込んだ。
熱いシャワーを浴びると悪寒は消えたが、もう一度寝直す気分にはなれなかった。
「――っと。……しまった」
着替えを持ってくるのを忘れていた。
シーツを抱えていたからだという言い訳もできるが、普段サキが気を利かせて用意しておいてくれる事に慣れてしまっているせいで、思い付きもしなかったというのが本当のところだった。
自分で思っている以上にサキに依存している現実に、コウは自嘲の笑みを浮かべた。
深夜の自宅内とはいえ、全裸でうろつく趣味は無い。
仕方なくバスタオルを腰に巻いてバスルームを出たところで、あろうことか、サキと出くわしてしまった。
「コウ !? 」
「……サキ?」
「なんて格好してんだよ! 着替え持ってくるから戻ってて!」
「あ……」
呼び止める間もなく、サキはくるりと踵を返すと、着替えを取りに駆けて行ってしまった。
コウがおとなしく脱衣所に戻ると、すぐにサキがパジャマと下着を抱えて入ってきた。
「……起こしちまったのか?」
「ううん」
着替えを受け取りバスタオルを外したコウに背を向けながら、サキは首を左右に振った。
「ちょっと寝付けなくて……。ホットミルクでも飲もうかなって思って」
「そうなのか? 俺は、なんだか夢見が悪くてな。嫌な汗かいたんで、流したとこだ」
「夢? どんな?」
「判らん。だから余計に気分が悪くてな……。情けない話だが」
脳裏に焼きついた正体不明の悪夢の断片を払うように、コウは手近なタオルを頭に載せて、がしがしと髪に残った滴を拭った。
「なんか飲む? 俺、キッチン行くけど」
「ああ、俺も行く」
乱れた髪を手櫛で適当に整えながら、コウはサキの横に並んだ。
「座ってろ。いいもん作ってやる」
台所に入るなり、コウは作業用のキッチンテーブルとセットで置いてある椅子にサキを座らせ、いそいそとミルクパンを取り出した。ホットミルクを作るらしいが、他にも何か冷蔵庫から取り出している。
夢見が悪くて気分が悪いと言っていた。台所に立つのはいい気分転換なのかもしれない。
本当は自分がそうして気分転換を図ろうとしていたのだが、どこか楽しそうなコウの背中を見ていると、この方がはるかに気持ちが落ち着くような気がして、サキは小さな笑みを口元に浮かべていた。
「できたぞ、ほら」
渡されたマグカップには小さなスプーンが添えられていた。
掻き混ぜると、渦に合わせてマーブル模様が浮かび上がってきた。
ふうふうとさましながら一口飲むと、とろりとした舌触りの後に砂糖とは別の甘味が広がった。
「チョコレートだ……!」
「こういう甘味もいいだろ?」
「うんっ! なんか、とろっとしてるのもいい感じ」
「片栗粉だ。水で溶いたのを少し混ぜてある。……気に入ったか?」
カップを口につけたままこくこくと頷く。
そんなサキの様子に満足そうな笑みを浮かべたコウは、自分もカップに口をつけた。
ひとときの静寂。
二人の間にやわらかな空気が流れた。
サキがふと視線を上げると、シンクに寄りかかってカップを傾けているコウと目が合った。
ふわりと返された微笑に、サキの顔も自然に綻んだ。
「へへっ」
「なんだよ」
呆れたような言葉にも笑みが篭っている。
向けられる眼差しは優しくて、穏やかで、ほんの少しだけくすぐったくて。
身体を重ねていなくても、ぬくもりが感じられる……。
こんな瞬間が、サキは好きだった。
寝付けなかったのは、SEXで受けたダメージのせいではない。
サキを気遣ったコウに、ひとりでゆっくり休めと言われてしまったからだ。
その気もないのに隣で寝たいなどと言うのはわがままだと思っていたから、とにかく早く回復させる為にと、早々にベッドに潜り込んだサキであったが、たまにしか使う事の無い自分のベッドはまるで他人の物のようで、どうしても眠れなかった。
以前読んだ本の中に、暖めたミルクは睡眠を誘うと書いてあったのを思い出し、試してみようと起き出したところで、腰にバスタオルを巻いただけの姿のコウと会ってしまった。
SEXがしたいわけではなかったが、もう、一人のベッドに戻るのは嫌だった。
「なんでもなーい」
「……なんだかな……」
カップを両手で包むようにしてちびちびとミルクを飲んでいるサキに、コウは苦笑を浮かべた。
どう見ても、時間稼ぎをしているようにしか見えない。
もっとも、自分がそうだから、そう見えるだけなのかもしれないが。
目が合えば、はにかむ様な笑みを浮かべるだけで、何かを話すわけでもない。
コウは、ほんの少し、自惚れてみる事にした。
とっくに空になっているカップの中身を、飲み干すフリをしてシンクに置いた。
サキの表情が、一瞬、名残惜しそうに曇った。
自惚れが、確信に変わる。
「冷めないうちに飲んじまえ。眠れないなら、ついててやるから」
「え!?」
驚いて、口元から離れたカップの中身は、空だった。
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