◆◆◆
「おい由貴也。お前、印鑑持ってきてるか?」
「あー、はい。契約に必要だって、持たされました」
昨夜の涙腺の決壊は幻覚だったのかと思うほど、目覚めた由貴也は落ち着いていた。
言葉遣いといい、立ち居振る舞いといい、昨日とはまるで別人のようにおとなしい。
その態度は普通に見れば、ごくごく一般的な、良識ある大人のそれではあるのだが、三枝はそこがどうにも気に入らない。まるで、感情を気取られないように築いた防護壁のようにも思え、面白くなかった。
(今更、犬が猫かぶってどうすんだよ)
腹の中で舌打ち交じりに呟いた三枝は、印鑑を手に近付いてきた由貴也の前に、本当は最後に見せるつもりであった書類を真っ先に突き出した。
「そこの空欄に、署名・捺印、一昨日までの住所の記載。質問は受け付けない。速やかに書け」
「一昨日までの? え? 現住所ってことですよね?」
「質問は却下だと言ったはずだ」
「……はい」
言われるままにペンを取り、名前を書き入れようとした由貴也の手が止まる。
「どうした? 書類はまだ他にもあるんだぞ?」
「……書けません」
「何故?」
「だって、これ! 養子縁組の届けじゃないですか!」
「だからどうした。これを正式な契約書だと送り付けてきたのは高藤の社長だぞ?」
「はぁ!?」
「最初に見た時ゃ俺もびびったけどな。でもまぁ、当たり前っちゃ、当たり前のことだし」
「何、あっさり納得してんすかっ! んなわけないでしょうっ!」
由貴也のかぶっていた猫が、見る見るうちに剥がれ落ち、むき出しの感情が駄々漏れになる。
――嬉しい
――夢だ
――信じたい
――駄目だ
三枝の口元が満足そうに微笑んだことに気付かないまま、由貴也は声に、表情に、己の感情を曝け出していた。
「こっ、こんな書類にサインなんかしなくたって、俺、俺はッ……だからッ」
由貴也の頬が紅潮し、ほんの少し目尻の垂れた、ココア色の瞳が切なげに揺れる。
――側にいる よそ見なんかしない
――保障なんて無くても付いていく
「お前、俺が『一生飼ってやる』つったら、『はい』って言ったよな?」
「そ、だけど、でも、それはッ」
――言葉だけでいい 荷物になんてなりたくない
「お前が一生俺の犬なら、俺は、一生お前の飼い主なんだって判ってるか?」
「そ、りゃ……」
口篭る由貴也の態度に、三枝の言葉を心底信じてイエスと答えたわけではないと知る。
情事の後のリップサービスとでも受け止めていたのかもしれない。
今朝からの由貴也の態度の変化に、ようやく合点の言った三枝であった。
(あんなに泣いて、嬉しくて仕方がなかったくせに)
ベッドでの口約束ほど、あてにならないものはないと思って構えてしまうのは、職業病のようなものかもしれないが、三枝にしてみれば、それなりに腹を括った上での一言だった。
一生養う覚悟でなければ、人間を飼おうなどとは思わない。なのに、プロポーズと言っても過言ではない一言を、社交辞令と思われてしまってはたまらない。
(俺は、お前が居た店の客とは違うんだって、いい加減判れよ)
「ちなみに俺には二匹も三匹も犬を飼うような甲斐性はない」
三枝の言葉に、由貴也の顔がハッと上を向く。
「……え?」
「でもって、家に自分の犬を置いといて、他所の犬と遊ぶつもりもない」
「そ……」
「さらには、他所の犬とお前を遊ばせてやる気もなければ、他人にお前を触らせる気もない」
心の狭い飼い主なんだと笑う三枝に、由貴也は首を左右に振るだけで、戦慄く唇は声を発しない。それでも三枝の言葉を噛み締め、溢れる感情に理性が揺さぶられている様子が、手に取るように判る。
(俺の本気が判るまで、なんべんだって泣かしてやる)
「来たのがお前で良かったよ。他の犬はもういらない。俺はお前を飼いたいんだ」
三枝は密かに心の中で、由貴也の涙腺が決壊するまでのカウントダウンを始めた。
「だから、諦めて檻に入っちまえ。放し飼いになんかしてやらねぇ」
「檻……」
「三枝鷹斗の戸籍って檻だ。逃げ出せると思うなよ?」
トントンと、書類を叩いて示した指先を、由貴也の髪に絡ませる。
くしゃりと前髪をかき上げてみれば、案の定、膨れ上がった涙が、限界水域に達していた。
三枝は、止めとばかりに耳元に唇を寄せた。
「由貴也」
髪を撫で、囁くように名前を呼んでやると、由貴也の肩がびくりと揺れた。
由貴也がこれに弱いのは、昨夜さんざん試して実証済みだ。
「信じろよ。俺を『ご主人』と呼んでいいのはお前だけだ」
(3、2、1……ゼロ)
由貴也が膝の上で握り締めた拳の上に、ぽたぽたと、大粒の雫が落ちて弾けた。
◆◆◆
「ご主人、ホントに考え直さなくていいんですか?」
海沿いの道を走る車の中で、助手席に座った由貴也が、諦め混じりの笑顔で言い募る。
「お前なぁ。さっき役所に書類出してきたばっかだろうが」
「や、まぁ……それはそうなんすけど……」
「けど、なんだ?」
「んー。南雲氏のことはいいのかなぁ、と」
「譲? ああ、総務の連中が何か言ってたか?」
「……あれ?」
由貴也としては、地雷覚悟の質問だったのだが、三枝はそんなことかという表情で、苦笑を浮かべただけであった。
市役所で書類が受理された後、一旦オフィスに戻り、由貴也の入社手続きを済ませてきた。
三枝曰く、健康保険やら年金やらの手続きは、会社員のほうが楽だから。
三枝由貴也の名で、住所も社長の三枝と同じで、肩書きが社長の第二秘書。
養子縁組の書類で力尽きた由貴也が、その後渡された書類の空欄を、三枝の指示通りに埋めた結果がこれだった。
当然ながら給与も支払われると知った由貴也が、固辞したのは言うまでも無いが、時すでに遅し。
第一秘書となる南雲の仕事は三枝のスケジュール管理、第二秘書の由貴也は、三枝本人の、メンタル面を含んだ体調管理が仕事だと言われてしまえば、断ることなどできなかった。
三枝の性癖が周知の事実の社内では、コネ入社の親類縁者だなどどは誰も思わない。
書類を手渡した女性社員に、意味深な上目遣いで「ご結婚おめでとうございます?」と小声で言われ、不覚にも、その場でしばし赤面したまま立ち尽くしていた事は、三枝には言っていない。
その時、小耳に挟んだのだ。
三枝が、親友の恋人である南雲に長いこと、恋煩いをしていたらしいと。
「何だよ? 俺が平気そうなのが不満か?」
「……や、不満というか、不思議というか……」
「……確かに好きだったよ。SEXしたいと思う程度には」
どこか遠くを見るような眼差しで、懐かしそうに三枝は言った。
由貴也が何かを言うより早く、さらに言葉を重ねて真実を告げる。
「けどな、告白しようと思った時には、あいつ、もう桂梧と付き合ってて。結局それっきりだ」
「え? 告らなかったんすか? なんで?」
「なんでって……俺じゃ駄目だって判ってんだぞ。お前は言えたか?」
くすりと口元だけで笑われて、由貴也は自分の醜態を思い出す。
三日前の夜、三枝に対し、由貴也は同じ事をしようとしていたのだ。
告白できずに身を引いた三枝の心中など、今の由貴也には、察して余りある。
「あー……心中お察しいたしま、す?」
「だろ? でまぁ、それが三年前の話で、実を言うと、つい最近まで引き摺ってたんだけどな」
健気を通り越して情けないだろと、同意を求める三枝に、由貴也は頷くことができなかった。
引き摺っていたのではない。引き摺らされていたのだ。南雲の思わせぶりな言動に。
三枝の部屋で見かけた南雲の姿を思い出す。
由貴也の目にはどう見ても、最愛の恋人と連れ立っているようには映らなかった。
誠実で情の深い、三枝のような男なら、たとえ一度は振られていたとしても、相手があんな態度で近くに居続けたなら、心を他所に移すことなどできるわけがない。
「なんか俺、今、無性に南雲氏ぶん殴りたい気分なんすけど」
「勘弁してやれよ。本人多分、無意識だから……と、ようやく気付いたのが今の俺ってわけだ」
由貴也の言葉に上機嫌で答える三枝の表情が、お前のおかげだと言っているように見えるのは、都合の良すぎる自惚れだろうか。
「えと、その気付いたきっかけって、もしかして、俺?」
「お、着いたぞ」
「え? ちょ!」
対向車が来ないのをいいことに、豪快に二車線道路を横切り、海岸沿いの駐車場に車を入れる。
問い掛けに答えないまま、エンジンを切り、さっさと車を降りるのは、照れ隠しだと思いたい。
同じ問いを繰り返す勇気を持てない由貴也は、諦めたように小さく息を吐いて、車を降りた。
週末はサーファー達で賑わうらしいこの駐車場も、月曜日の午前中では誰も居ない。
ドアを閉め、三枝がロックを掛けるのを確かめてから隣に並ぶ。
ジャケットのポケットにキーを収めた三枝の手が、代わりに小さな箱を差し出してきた。
濃紺のビロードのような布の張られた小さな箱に、由貴也の視線が釘付けになる。
「左手、出せよ」
ぶっきらぼうに言いながら、三枝は箱のふたをそっと開いた。
中には同じデザインの、プラチナと思われる輝きのリングが二つ。
「……ご主人って、まずは形から入るヒト?」
「色々順序が間違ってるのは自覚してんだから、言うなよ。ほらお手!」
「お手は右」
「おまっ、こういう時にそうくるか? んじゃ、おかわり! ほら、出せ」
三枝の差し出した手に、由貴也は黙って左手を乗せた。
薬指に吸い付くように、シンプルなデザインのリングがぴたりとはまる。
「『愛してる』とか言って貰えたり?」
「初めて会って、たかだか三日や四日でそれは無理」
「ですよねぇ」
だったらなんで、いきなり入籍などという暴挙に出たのだろうかと、未だに疑問が拭えない。
普通なら、お試し期間の二ヶ月や三ヶ月は、あっても不思議は無いのにと思う。
「文句があるならお前の伯父貴に言ってくれ」
「なんで伯父貴?」
「お前の代金は、俺の人生全部だと。でなきゃ売らねぇときたもんだ」
「それで、まずは籍など入れてみました、と?」
三枝が、養子縁組の届けを「契約書」と言った意味がようやく判った。
入籍しなければ、この契約は本当に無効になるところだったのだ。
「結婚前提のお付き合いどころか、籍を入れなきゃデートもNGって、どこの箱入り娘だよ」
「お、俺にそれを言われても……」
「お前、早々に見切りつけて諦めて、譲が書類持ってきた時はもう、帰る気になってたろ?」
「あー、はい」
「書類見て焦ったぞ。とりあえず付き合ってみてもいいかとか、思い始めたとこだったんだからな」
「それで、俺のことパシらせた?」
「あいつらいたら話なんてできないだろ? メシ食わせれば帰るの判ってたしな」
三枝が、午後の診療云々と、熊男に言っていたのを思い出す。
「じゃ、急患の連絡がきてラッキーとか思ってたんだ?」
「自宅の階段でこけたばあさんには悪いが、『よく落ちた!』とか本気で思った」
「ひでぇ」
「ちゃんと、説明するつもりだった。いきなり養子縁組なんて、ドン引きされて当たり前だしな」
由貴也の左手を握ったままで、三枝は尚も話を続けた。
「メシ食いながらゆっくりと思ったら、お前、食うのに夢中で話聞かねぇし」
「腹、減ってたし……メシ、すげぇ美味かったし」
「食うだけ食っといて、我に返ったらすーぐ帰ろうとしやがるし」
「さすがに居たたまれなくなりまして……」
「引き止めたら、有り得ないっつー顔してビビるし」
「ああああああああ……返す返すも申し訳なく……」
由貴也の左手を裏返し、上を向いた掌に小箱を載せる。
小箱の中にはリングがもう一つ。
「一目惚れとかじゃなくて悪いけどな」
三枝は自分の左手を由貴也に差し出した。
「四六時中そばにいて、一緒にじゃれて遊びたい程度には好きだから」
「その遊ぶって……」
「……外ではヤらんぞ」
「ぷっ……判ってますって」
揃いのリングが、二人の薬指に収まった。
「下、降りてみるか?」
「ういっす!」
駐車場の端の、海へと下りる階段へと向かう。
海面を渡る風が、潮の香りを運んできた。
「あ……」
夢の中、何度も見ていた風景が、現実の景色として目の前に広がっていた。
夢の中より季節は進み、脱ぎ捨てるコートはないけれど。
陽光を受けた水面はいっそう眩しく煌いて。
由貴也は思わず階段を駆け下りていた。
海岸には散歩途中の老人や、幼児を連れた母親達のグループも居た。
夢とは違う、足跡のいくつも散らばる砂浜が、現実なのだと知らしめる。
「由貴也、待てって!」
呆れたような声で、自分を呼び止める声がする。
振り返ればそこには、生涯を共にと言ってくれた人がいた。
ご主人と叫びかけて人目に気付く。
深呼吸を一つ。
大きく手を振り、由貴也は三枝の名を呼んだ。
「鷹斗さーんっ! 早くーっ!!」
由貴也の中で、夢とリアルがリンクした。
◆◆◆
「あの馬鹿。今、絶対『ご主人』って言いかけたな」
でかい図体をしているくせに、子供のようにはしゃいで手を振る、由貴也の姿に苦笑を漏らす。
休みの日には犬を連れて、浜辺を散歩するのが夢だと言ったら、二つ返事で頷いた。
どうやら由貴也にとっても、海は思い入れのある場所だったらしい。
指輪を渡した時よりも、幸せそうに笑っているのが、少し悔しい気はするが。
「あいつのほうが、念願叶いましたって顔してるよな」
そう言いながら由貴也を眺める表情が、どれほど至福に満ちているかなど、三枝自身は気付かない。
海辺の散歩の帰り道、三枝が密かに気に入っていたあの犬が、ゴールデンレトリバーだと教えてくれたのは由貴也だった。
人懐こくて従順で、忠誠心が強い、天性の服従心を持った伴侶犬。
孤独が嫌いな寂しがり屋で、ご主人と一緒の時が一番幸せな甘えん坊。
ネットで調べた情報に、三枝が腹を抱えて大笑いしたのは、その日の晩のことだった。
END
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