霊感探偵倶楽部・姉崎探偵事務所シリーズ

終章


 中沢の手のひらがゆっくりと、鴻の腰から尻にかけてを撫で回している。
 その動きがただ撫でているだけだと気付いた鴻は、内心安堵の溜息をついた。
 と同時にかすかな失望も感じてしまう自分に、知らずに自嘲の笑みが浮かんでいた。

「笑い事じゃないだろうが」
「何もない」
「ウソをつくな、ウソを。あんなに乱れてたくせに……」

 中沢は、自分の技量が鴻を乱れさせたなどとは思っていなかった。

 18,19の小僧ではないのだ。自分の技量と相手のよがり声が比例するなどそうそうあるわけがないと知っている。

「自分の技量が上がったからだとは考えないのか?」

 中沢の心中を見透かすような鴻の言葉に、苦笑が漏れる。

「そこまで自惚れられるほどの経験値はないんでね」
「……そうでもないと思うが……」
「え?」

 思いもかけない鴻の言葉に中沢は絶句した。
 見れば、言った当人も自分の言葉に驚いているようだった。

 話を逸らすための方便などではないらしい。眉間にシワを寄せてはいても、そむけた頬に赤味が差していた。

 中沢は、自分の頬が緩んでいくのを止められなかった。

 今まで、こんな風に言われた事などなかった。
 もっとも情事の後の感想など、訊いてみたいと思っても訊けるものでもなかったが。

 顔を背けたついでにくるりと背を向けた鴻がシャワーのノズルを手にしても、中沢はにやけた顔でその場に棒立ちになっていた。鴻は中沢に背を向けたまま、肩越しにノズルの先の狙いを中沢の顔に定め、蛇口をひねった。

「うわっぷ! お、鴻!?」
「邪魔だ。どけ」
「どけ…って……。俺も使うんだけど」
「湯なら充分浴びただろう。湯船につかりたかったんじゃないのか?」

 鴻は手にしたノズルを上下に大きく動かし、中沢の全身にお湯をかけながら湯船へ押しやろうとする。子供のような仕草に呆れながらも、それが先ほどの言葉の照れ隠しなのだと思うと、中沢は妙に浮かれた気分になるのであった。

 素直に湯船につかり、ゆったりとはいかないまでも、身体を伸ばして息をつく。
 肩甲骨の辺りがちりちりと湯にしみる感覚も、近頃はすっかり馴染みになっている。

 それが自分が鴻にもたらした結果だと思うと、自然と顔がほころんでくる。しかも単なる思い込みではなく、鴻自身もそう思っていてくれたことが、何より嬉しかった。

「……聞きたいことが、あったんじゃないのか」

 身体についた泡を流しながら、鴻が口を開いた。

「いいよ、もう。俺が聞いてもどうにもならない事なんだろ?」
「そんな事は……」

 中沢は、ばしゃばしゃと音を立てて湯船の中で顔を洗うと、鴻に向かって微笑んだ。

「座れよ。髪、洗ってやるから」
「あ……」

 節くれだった長い指が、地肌を丹念に揉み解し、毛先へと流れていく。

 ただ黙って鴻の髪を洗う中沢に、無理に話を聞きだそうとする意志は無いようだった。

「……気になる二人連れに会った」

 鴻は、自分から話し始めた。

「はっきり見えたのか?」
「ああ」

 中沢は、何時 とも どこで とも訊かない。鴻も話さない。

「ちゃんと人間だったのか。そいつら」

 おそらくは仕事中の出来事なのだろう。
 ならば鴻の目に映るのは人間ではない可能性のほうが高い。
 湧き上がる好奇心を抑えて、中沢は聞き役に徹することにした。

「一人は……。だがもう一人がよく判らない。最初は死体に見えた」
「……ビデオ撮影してたとか言うなよ」
「莫迦。あれとは別物だ。……すまない……思い出させてしまったか」
「いや。もう、大丈夫だから」

 気遣わしげに振り返る鴻に、中沢は力の無い笑みを返した。
 以前巻き込まれた事件で、中沢は精神に深い傷を負ったことがあった。
 幸い魂は無傷であったが、それは幼児退行を引き起こすほどの衝撃であった。

「で? 何がそんなに気に掛かったんだ? 動く死体なんてお前にとっちゃ珍しくもないだろ?」

 一瞬脳裏によぎった暗い記憶を振り払うように、中沢は鴻に話の続きを促した。

「ああ。…いや。何といえばいいのか…。二人の間柄というか関係が、その……」

 理路整然と物事を解説することに長けている鴻が説明に困る複雑な間柄というと恋愛絡みだろうか。しかも不倫や援助交際よりも世間では口にするのを憚られるような。

 中沢は少しばかり複雑な心境になりながらも、思いついたままを口にした。

「なんだ? 片方が死んでるのに気が付かないでいちゃついてるホモのカップルでも見たのか。」
「そうではなくて、だな。ああ、でも…そうか……」

 いちゃついていたわけではなかったが、二人でいるのが当たり前のような雰囲気ではあった。恋人同士というよりは主人と従者のようだった気もするが、単なる主従を越えた何かが、あの二人の間には確かに存在していたように思う。

 それを愛だと言ってしまってよいものかどうか、鴻には判断できなかった。

「まぁ、いいさ。とにかくその二人にあてられて帰りたくなったお前に、俺はタクシー代わりに呼ばれたわけだ」
「タクシー代わりだなんて、思ってはいない」
「憂さ晴らしもできたしな。満足したら原因なんて忘れちまったか?」
「中沢っ!」

 そう思われても仕方がないような事をしてしまったと自覚している鴻である。
 責められたなら謝ることしか出来ない。だが本心はそうではないと伝えたかった。

「ばーか。何ムキになってんだよ。冗談だって」
「冗談には聞こえなかった。まだ怒ってるんじゃないのか?」
「怒ってる? 何に?」
「だから……」
「別にタクシー代わりでも、憂さ晴らしの相手でも、俺を呼んでくれるんなら文句はないぞ。俺が腹を立てたのは、お前が、あの最中に俺を見てくれてなかったって事だけだ。それだって、フォローが入って結局は盛り上がったんだから、チャラだろう?」

「中沢……」
「ほら」

 中沢は、シャンプーがついたままの鴻の頭を自分の胸に抱き寄せた。
 力強い鼓動が、鴻の耳に届く。

「死体もどきの馬鹿っぷるの事なんて忘れちまえよ。俺もお前も生きてるんだから」

 解釈は外れているくせに、核心だけはしっかりと突いてくる中沢の物言いに、鴻は苦笑した。

 つまりはそういうことなのだ。

 死者と、人としての死に近しい者たちの想いに引きずられ、鴻は、自分の生を見失いかけていた。

 だからこそ中沢が必要だった。

 今となっては唯ひとり、鴻が鴻恵二の自我を持って存在し続けたいと願う理由。それが、中沢高志という生身の男の想いであったから、鴻は中沢を欲した。

 自分の生を自覚する為に。そして何より、自分を抱き寄せる腕が幻ではないと確かめる為に。

「泡、流すぞ。ちょっと下向け」
「ああ」

 柔らかな水流が、頭上から降り注ぐ。
 中沢の手が、流れに合わせて髪を梳きながら上下する。
 痒いところはございませんかと、おどける中沢の声が心地いい。
 鴻は、口元に薄い笑みを浮かべて目を閉じた。






END

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