BloodyDoll

  Red Triangle  



 穏やかな年明けではあった。釣りこそしなかったものの、私は正月の間、大抵の時間海を眺めて過ごしていた。年賀状のほとんどは事務所宛てに配達されていたし、年始の挨拶にわざわざ自宅にまでやってくるような輩もいなかった。

 好きな音楽を聴きながらパイプの手入れをし、フランス娘とのデートを楽しみながら海を見に行く。寒くなれば「レナ」に立ち寄り一杯の旨いコーヒーを身体に沁みこませてから家路を辿る。

 私の一年は、静かなひと時を満喫することから始まったのだ。

 年賀状といえば、ふざけた内容の葉書が二通、自宅宛に届いていた。一通はお喋りな殺し屋からで、年賀状というより、年賀葉書に書かれた領収証であった。

 私に係わる荒事全般を奴に押し付けた事への見返りに支払わされた、基本報酬とやらの領収証だ。

 今思い出しても腹が立つ。去年のクリスマスに支払わされたその報酬の所為で、私は翌日事務所に出ることが出来なかったのだ。損害賠償でも請求してやりたいところだが、嬉々として「物納」すると言い出す奴の顔が浮かんできて、その気も失せてしまった。気晴らしにピアノでもと店に顔を出してみれば、坂井の慇懃無礼さに拍車がかかっていた。

 そう、もう一通のふざけた年賀状は、坂井からのものだった。

 小学生のような乱雑な文字で、大きく「賀正」とだけ書かれた紙面の端に、「あのカクテルは店では作りませんから」と書き足されていた。

 こちらは挑戦状とでも言ったほうがいいのかもしれない。

 文句があるなら私にではなく、叶に直接言えと言ってやりたかった。こんなだから小僧と呼ばれるのだという事に気付いていないのだろうか。

 叶と坂井の間でどんな話がなされていたのかなど、私の知ったことではなかったし、これからも積極的に知ろうとは思っていない。

 波間を渡る風が冷えてきた。吐く息が白い。
 「レナ」に寄ってコーヒーを飲んでから帰ろう。

 私は水面に映る残照が消えるのを待たずに車へと戻った。

 脇道から出てしばらく走ったところで、バックミラーに赤い車が現れた。叶のフェラーリだった。

 年末年始とたっぷり可愛がってもらったのか、すみずみまで磨き上げられたイタリア娘は、機嫌のいいハイトーンの歌声を響かせて追いついてきた。ハードなデートの最中のようだ。

 ひときわ高く歌い上げた彼女は、派手なウィンクと共にあっさりと私の車を追い越すと、魅惑的なヒップを見せつけながら、踊るような腰つきでコーナーを駆け抜けていってしまった。その艶やかな去り際に、私は思わず賛辞の口笛を吹いた。

 どうやらデートの目的地は同じだったらしい。「レナ」の駐車場に赤いボディが澄ましているのが見えた。
 
 私はフェラーリとは反対側のスペースに自分の車をとめた。

 あの赤いボディの隣では、シトロエンのブルーメタリックのカラーリングがくすんで見えそうで嫌だったのだ。

「よう、キドニー。あんたのフランス娘、今日はまた一段とお高くとまっているじゃないか。俺の彼女の横には並べないってのか?」

 私のささやかな対抗心を見透かしたように、店に入るなり叶が声を掛けてきた。

「ふん。当たり前だ。じゃじゃ馬が移ったら困るからな。彼女は俺しか乗せたことがないんだぞ。お前のお嬢のように誰にでも腰を振って見せ付けるような娘じゃないんだよ」

「言ってくれるじゃないか、キドニー。見たがる輩が多いから見せてやってるだけさ。あれでなかなか身持ちは堅いほうなんだぜ。誰でもいいって訳じゃあない」

 隣に腰を下ろした私に、叶がくってかかる。カウンターの中から、くすくす笑う声が聞こえた。

「なんだか車の話には聞こえませんわね」

 コーヒーを差し出してくれながら、菜摘が意味あり気な視線を投げてきた。私は一瞬、安見がいなくて良かったと、本気で思ってしまった。

 あの娘がいたら、何を言い出すか判ったものではない。
 私達は墓穴を掘らぬように黙ってコーヒーを啜るしかなかった。

「叶さん、沢村先生のアルバム、持ってきて下さったんでしょう?」

 気まずさを取り成すように菜摘が話題を変えた。

「アルバムだと。もう手に入れてきたのか。発売日は週明けだったはずだろう」

 沢村明敏が十数年振りにアルバムを出す事を承知したのだ。
 発売されたなら私も手に入れるつもりにしていた。

 叶が得意気な顔をして真新しいレコードのジャケットを取り出して見せた。

「店頭に出てないってだけで、販売店への搬入は終わっていたんでね」
「待つのは苦にならないと言っていたお前がフライングか?」
「待つべき時にはいくらでも待つさ。知っているはずだろう、キドニー?
このレコードは待つ必要などない。だからさっさと手に入れた。そういう事さ」

 叶からレコードを受け取った菜摘が、そっと針を落とした。

 時間の流れが緩やかになったような気がした。


 「レナ」を出る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。思いのほか長居をしてしまったようだ。暖機をしながらアルバムの中の曲を思い出してみる。鎮魂曲だった。

 沢村明敏の生の演奏が聴きたくなった。

「なあ、キドニー。生の音を聴きたいと思わないか?」

 叶も私と同じ気分だったようだ。

「同感だ。俺は車を置いてから行く」

 叶がじゃあなと軽く片手を挙げて車に乗り込み、クラクションを鳴らして走り去った。



◆◆◆◆◆



 坂井の手際は一段と鮮やかになっていた。


 叶の、あるかなきかの目配せひとつで、瞬く間にソルティドックが出来上がっていた。どうやら、年末年始に乗り回していたのは車だけではなかったようだ。

「メンテナンスは完璧って訳か」
「暮れからこっち、暇さえあれば乗り回していたからな」

 私の呟きを、叶は聞き逃さなかった。悪びれた様子も見せずに平然と答える。

「いい声で啼くようになったのはいいんだが、燃費の悪さにはこっちが泣かされたぜ」
「燃費ね。あのガタイと馬力じゃ仕方がないだろう。その位、始めから承知の上で乗り回していたんじゃないのか」

 飯まで奢ってやったらしい。坂井の大食いは有名だ。もっとも美食家というわけではなく、食えればいいという奴だから、安く上げようと思えば出来ないこともないのだが。

「ハイオク満タンで走らせたって訳か」
「当たり前だろう。俺が乗るんだぜ?」

 さぞかし高くついたことだろう。

 私は笑いを堪えるためにパイプに火を入れた。

 坂井がグラスを磨きながら耳をそばだてている。あいつも一端の男だ。そうそう素直に飼い馴らされるはずもないだろうが、そういう所が叶の好みに合っているのだろう。

 あの優雅に荒々しく走るイタリア娘のように、坂井もまたその身のこなしの内に荒々しい気配を潜ませているのだから。

 沢村が次の曲を弾き始めた。
 クリスマスの夜、散々聴かされたあの曲だった。
 叶がリクエストしていたらしい。口元が僅かに綻んでいる。

 わざとだ。

 坂井はこの曲が「それ」だとは気付いていないらしい。特別な反応は示していない。私も素知らぬ振りをして、パイプの煙を吐き出して見せた。

「Kiss Of Fireじゃないか。誰かのリクエストか?」

 背後で、一番聞きたくない声が、一番言ってはいけない言葉を吐いた。

 坂井の動きが止まった。

 私は心の中でため息をついていた。

「坂井、この曲と同じ名前のカクテルがあっただろう。一杯頼む」

 川中の言葉が、固まっている坂井にさらなる追い討ちをかけた。

 ” Kiss Of Fire ”

 クリスマスの夜、叶が私に飲ませたカクテルの名だ。作り方を教えたのは坂井だったらしい。

 叶はクリスマスの直前に、作り方を教わるためだけにわざわざ坂井を呼び出したようなのだ。私に飲ませるためだったと、どうして坂井が気付いたのかは知らないが、その日以来、厭味なほどの慇懃無礼な態度で接してくる。

 よほど気に入らなかったのか、わざわざ年賀状で宣戦布告までしてきた。私の為には作らないという意味であっても、目の前で作るのはやはり気が進まないのか、川中の註文であるにもかかわらず、手が止まったままだ。

「坂井、その前にソルティドックをもう一杯だ」

 曲が終わっていた。叶が助け舟を出した形になった。
 ほっとしたように、坂井の手が回る。

「行こうか、キドニー」

 沢村がカクテルを飲み干し、奥へと消えるのを見届けると叶が席を立った。それが合図だったかのように坂井が砂糖でスノウスタイルを作り上げていた。

 甘く激しいカクテル。

 川中はどんな印象を持つのだろうか。

 私は川中とは言葉をかわさないまま、叶に促されて店をあとにした。

「叶、坂井のあの態度は何とかならんのか。お前は一体あいつに何を吹き込んだんだ」

 部屋まで送るという叶の言葉で車に乗り込んだ私は、暖機をしている間中文句を言い続けた。

「別に。ただ『小僧は小僧らしくしてろ』と言ってやっただけなんだがな。あいつは、ああいう風に解釈したらしい」

 咽喉の奥でくくっと笑いながらシガリロに火をつける。
 じゃれついてくる子犬をあやしてやっていると言った口ぶりだ。

「まったく。確かに小僧らしい反応だがな。店に行くたびにあれじゃ、俺はかなわんぞ」
「余裕じゃないかキドニー。俺が小僧相手に本気で入れ込むはずがないと安心しているのか?」

 サイドブレーキを解除しながら叶がのたまう。

「いいや。本気になってくれても俺は一向に構わないと思っているんだがな」

 私はシートに深く座りなおし背もたれに身体を預けた。

「つれないことを言うなよ。俺はあんたのナイトなんだぜ」
「忠誠心の表し方を吐き違えた、な」

 少々乱暴にクラッチを繋ぐ。抗議のつもりなのか。

「手を伸ばせば届く所に居るんだ。欲しいと思うのは当たり前さ。違うか?」
「物事には限度というものがあるだろうが。毎度毎度、俺を壊す気なのか、お前は」
「それもいいかもしれないな」

 アクセルを踏み込み、私のマンションとは別の方角に曲がる。

「おい」
「明日、時間通りに事務所へ送り届ければ文句はないんだろう? 沢村明敏のニューアルバムを聴きながらってのはどうだ?」
「鎮魂の曲を聴きながら、何を鎮めるつもりなんだ」

 わずかな横Gと共にフェラーリが軽やかにコーナーを抜ける。

「それはあんた次第さ、キドニー」
「ふん。地獄への道行きになりそうだな」
「地獄へ堕ちるも天国へ昇りつめるも、お望みのままに」

 流れるように駐車場に入ったイタリア娘は、貴婦人のような優雅さでその身体を所定のスペースにおさめると口を噤んだ。叶が助手席のドアを開け、手を差し伸べてくる。

 私は黙ってその手をとった。








END

Copyright (c) 2009 Chika Akatuki All rights reserved.