BloodyDollシリーズ
BlackBox〜下村敬・心のヴォイスレコーダー〜
Voice1
カーテンを閉め忘れた窓から月の光が射し込んできた。
どうやら雨はあがったらしい。
重く垂れ込めていた雲もどこかに流れていったようだ。
背丈の割りに痩せた身体が月光に照らされて白く浮かび上がる。
坂井は情事の後のけだるいまどろみを通り越してそのまま寝入ってしまっていた。
(ホントに羽根でも生えてきそうだよな……)
俺は規則正しい寝息とともに上下する背中に、そっと手を伸ばして撫でてみた。
生えてくるなら肩甲骨のあたりだろうと指で辿ってみても何かに触れるわけでもない。当たり前の事だというのに、なぜか確かめてみたくなった。
(あるわけないだろう。なにやってんだか……)
我ながら危ないヤツだと、思わず自嘲の笑みが浮かぶ。
それでも指は吸い付いたまま、あるはずのない羽根の在処を探し続けていた。
「あ、そこ…。もちっと強く」
「………起きてたのか」
「いや。なんか背中がくすぐってぇなぁと…。ん…もう少し上も……」
「俺はマッサージ師じゃない」
文句を言いつつも、言われた通りにしている自分が情けない。
どうせなら別のマッサージをさせてくれ。そっちの方が自信がある。
「なんか、身体中だりぃ」
「………」
そりゃそうだろう。さっきまであれだけ激しく動いていたのだ。
声に出して言いそうになり、あわてて言葉を呑み込んだ。
素直に甘える天使の姿などめったに拝めるもんじゃない。
迂闊な返答をしようものなら、第2ラウンドどころか床とキスする羽目になる。
慎重に、機嫌を損ねないように。
俺は上だの下だの思いつくままに出される坂井からの要求を忠実に実行してやった。
明日は店の定休日だし、できればもう1度くらいはお願いしたい。
そのためのインターバルだというのなら、このくらいお安い御用だと言える。
「もう、やらねぇぞ」
俺の邪な本音をかぎとったのか、あからさまな拒絶の言葉が投げられた。
「………………なんで」
「お前しつこいから。やたらあちこち触りまくって回りくどいし」
これは正直言ってちょっと、いや、かなり衝撃的な発言だった。
俺の過去の経験から比較しても、坂井はかなり感度がいい。
もとからなのか、あの気障でおしゃべりな殺し屋に開発された結果なのかは知らないが、余分な肉がついていない細身の身体は、鎖骨や腰骨がきれいに浮き出ていて、そこをなぞるだけで瞬く間に体温が上がってゆくのだ。
惚れた相手をとことんまで昂めてやりたいと思うのは、男として至極当然の心理だと思うし、自分の手で相手が淫らに身体を開いてゆく様を鑑賞するというのは、はっきり言ってかなりの快感だ。
だからと言って前戯にばかり時間をかけているという意識は俺にはなかった。
体力に不安があるわけではないからそれなりに回数もこなせるわけだし、わざわざ1回の絶頂を延々と引き伸ばす必要などないのだから。
ただ、始めるなり入り口ばかりを狙って攻めほぐして突っ込むのというのは、俺としてはあまりに本能に忠実すぎて恥ずかしいので、あくまでも抱き合う手順として、それなりにお互い感じあって盛り上がってから繋がりたいと思ってそうしていたのだが、本能の赴くままに突っ走ったほうが良かったのだろうか……。
「犬や猫の交尾じゃないんだから、挿れりゃぁいいってもんでもないだろうが」
「なんでだよ。女じゃあるまいし、揉むような乳も無いんだからそれでいいだろ」
「そ……」
それはあんまりな言い草ではないだろうか。
いくらムードに酔うようなタイプではないとはいえ、ストレート過ぎるのもいかがなものか。
いい歳をして独りでティッシュ片手に励むのが馬鹿らしいから。
朝起きて汚れた下着を洗濯するのが煩わしいから。
そんな理由だけで俺を受け入れているのだとしたら、気持ちは判るがかなり痛い事実だ。
「下村…? ……っ!? おいっ!」
「あ?」
「あ? じゃねぇだろう。何いきなり泣いてんだよ!」
「え……?」
それまで怠惰な姿勢を崩しもせずに寝そべっていた身体が跳ね起きて、両手が俺の頬をつかんだ。
どうやら俺は涙を流しているらしい。
それも涙ぐむといったレベルではなくぼろぼろと。
坂井の手に阻まれて流れを変えた涙が唇に伝ってくる。塩辛い。
間近に見える坂井の顔が妙にゆがんでぼやけている。
(なんで泣いてるんだ……。俺……)
「ボケてんじゃねぇよ。別にお前が下手だとか嫌だとか言ったわけじゃないだろう」
「あ、ああ。そうは言われてない」
「泣くほどへこむような事言ったか?」
「特には……」
『しつこい』『回りくどい』と言われてへこんだのは確かだが、泣くほどだったかと問われれば否だ。自覚していなかっただけにプライドが多少欠けたかもしれないが、充分修復可能なレベルだ。
「じゃぁ、コレはなんなんだ? お前の涙腺はタイマーかなんかがついてて、時間がくると自動的に涙が出るようにでもなってるのか?」
それは俺のほうが聞きたかった。
もしかしたら、折れた鼻を治した時にドクが何か埋め込んでいたのだろうか。
本当にやられていそうで思わず背筋が寒くなった。
「ドクがなんか埋め込んでたりして」
「しーもーむーらー」
頬を思い切り外側に引っ張られた。
「うほれす。ほめんらふぁい」
嘘です。ごめんなさい。そう言ったつもりだったが伝わっただろうか。
気付けば涙も止まっていた。一体なんだったのだろう。
深く考えると自分の中の地雷を踏んでしまいそうな気がして俺は考えるのをやめた。
かわりに現実的な問題に対処するべく坂井に向き直る。
坂井の手はもう俺の頬から外されていた。
泣いていたのが判ったのなら涙を拭うくらいしてくれてもいいだろうに、冷たいヤツだ。
「なぁ、俺ってそんなにしつこい?」
「女なら悦ぶかもしれない程度にな」
「お前は? ……うれしくない?」
「触られるのは嫌じゃない。が、時と場合による。お前は毎回サカリつき過ぎなんだよ」
「……えーと?」
坂井の頭の中では、どうやら俺は万年発情期のケダモノに分類されているらしい。
まぁ、坂井に対してはその通りなので否定はしない。
しかし、この『時と場合』のボーダーラインというのはどこにあるのだろうか。
「………」
「………」
俺は坂井がボーダーラインのありかを示してくれるのをおとなしく待っていた。
「じゃぁ、そういうわけだから」
だが俺の天使は、目顔で判ったなと念を押しただけで再びベッドに身体を伸ばすと、背中を向けて完全に睡眠の体勢に入ってしまった。
何がそういうわけなのだろう。
俺は自分がひどく馬鹿になったような気がした。
(駄目だな、こりゃ)
今夜はもうどうあっても振り向いてはくれないであろう天使をベッドに残して、俺は中途半端にわくわくしてしまった息子を宥めるべく、ひとり虚しくバスルームへと足を向けた。