月が満ちて、凛とした空気が屋敷を包み込んでいた。
なかなか寝付けない夜、こっそり部屋を抜け出した竜憲は、
パジャマの上に上着を羽織りながら庭に出た。
吐く息が白く、鼻の頭や耳がじんじん冷えてきた。
竜憲は冷えた空気を吸い込んで、ゆっくりと口から吐き出す。
それだけの行為だが、体が中から清められる気がする。
呼吸法としては正解なのであるが、なかなかどうしてこれが出来ない。
訓練したからと言って永久に続けられるわけでもない。
生まれながらに、身についている人もいるらしいが、
自然にそれも無意識のうちに出来るかというと、無理な方が勝っている。
竜憲は、モノクロに映し出される美しい庭を眺めつつ、
植えられている木々の名を考える。
藤や桜に椿、梅やら萩に木蓮。
紫陽花、菖蒲に南天、はたまた万両や千両...。
「あれは、西王母という椿だったかな。あの桜は枝垂れ桜だ」
思い出せるだけ思い出して呟くが、
自分があまり木々の名を知らないことに溜息をつく。
庭の内ですら分からないのに、裏手の山になど入れば、
分かる物の方が少ないだろう。
仕方がない事だ。
それを職業にしている人や興味のある人なら納得がゆくが、
年頃の男が、普通で考えれば詳しい訳が無い。
そう考えれば、竜憲など詳しい方だ。
ゆったりと歩き始めて、もう三十分がくるだろうか。
そろそろ部屋に帰ろうかと、来た道を振りかえると、
その庭の片隅に白い人影を見つける。
竜憲の顔が少し曇ったが、そこを通らないことには部屋には帰れない。
思いきって声を掛けてみようと、竜憲は覚悟を決めて、白い人影に近づく。
「鴻さん?」
竜憲の気配に気づいていたのか、鴻は驚きもせず振りかえる。
「竜憲さん…。ですか」
月の光が眩しい訳でもないのだが、鴻は目を細めて姿を見ようとする。 まるで、竜憲が眩しいかの様に。
「何かあったの?」
竜憲は、鴻の見ていただろう場所に目を遣る。
「穴…だよね。」
鴻の足元には、大輔でも楽々に丸まれる程の穴があった。
「確か、うちにはこんなの無かったよね」
「ええ。昨日までは……」
鴻は穴を覗きこむ様に、片膝を付く。
「誰が、こんな所に穴なんて掘ったんだろう?」
竜憲は鴻の上から穴を覗きこむ。
こんな所に穴を掘って、何をするというのか。
それも、こんなに大きな穴を……。
竜憲は顎に手をやり考える。
ふと、竜憲は何を思ったか鴻の手元を見る。
月に照らされた白い手に、こげ茶色の物体が所々付いている。
(まさか、鴻さんが掘ったって事はないよね)
一瞬考えてみたものの、すぐにその考えを打ち消す。
穴の様子を見ていて汚れた可能性もある。
しかし、もう一度鴻の手元を見て、さっきの考えは間違っていないかも…と思い始めた。
鴻の白い小袖の袖口や、袴の裾それに足袋までもが、土らしきもので汚れていたのだ。
鴻自身はその事に気づいていないのか、
穴を掘った犯人を本気で探しているようだった。
その証拠に、暫くするとかすかな光の塊が、竜憲の前を横切る。
「今、式を使ってた?」
「はい。」
短く答えた鴻は、少し眉間に皺をよせる。
「ですが、ここに戻って来るのです。」
そう答えて、また穴を見つめる。
二人の足元には、焦げた紙らしき物が落ちたままである。
(それって、ここに犯人がいるって事じぁないの)
そうは思っても、口には出せない。
少し考えて、やっとの事で竜憲が口に出来たのは、
「どうして、鴻さんはここに来たの?」
という、根本的な疑問であった。
「何かに呼ばれたような気がしまして、気がつきましたらここに…。」
「そしたら、穴がもう有ったって?」
「はい」
なんで、自分の手に付いた土に気がつかないのか、竜憲は不思議でならなかった。
例え、土の付いたままの手で、饅頭を食べたとしても気がつかない、そんな気がする。
普通でない感覚。
だからこそ、こんな突拍子も無い事が出来るのだろう。
ひょっとすると、神様と長く付き合っていると、こうなってしまうのだろうか?
人として、規格外になるのに躊躇いはあるが、竜憲が足掻いたところでどうにもならない。
そうなってしまうのなら、その状態を自然に受け入れようと、竜憲は思っている。
大輔は無論、反対するだろうが……。
ただ、鴻の様にはなれないだろうと思っている。
人を拒絶してしまうのは、竜憲にはとても無理だからだ。
助けを求める善良な人がいれば、「自業自得」と捨ててはおけないだろう。
例え善良でも、大輔なら止めるだろうけど。
それ自体が、姫神の影響を受けているとしても仕方の無い事だし、
大輔が止めるのも素盞鳴の影響だろう。
そんなことを考えながら、竜憲は穴を見つめる。
今は、自分のことより鴻と穴の関係である。
鴻は生まれた時からずっと付き合っているのだから、
まだ日の浅い竜憲に理解できない行動をしてもおかしくはない。
兎にも角にも、犯人は絶対に鴻だ。
竜憲は確信したものの、何の為に鴻がこんな事をしたのか気になり始めた。
「他に手がかりは無いの?」
「手がかりですか?」
「そう。ほら、陰陽の力が働いてるとかさ」
業とらしく聞いてみたものの、何故、自分がここまで誤魔化す必要があるのか、
竜憲はだんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。
はっきり、『あんたが犯人だ』と言ってやりたい。
それからでも、奇妙な行動の裏に隠された真実を探っても遅くはない。
小さく溜息をついて、竜憲は決心する。
「あのさ……この穴、かなりの確率で……鴻さんが掘ったみたいなんだけど」
「私が……ですか?」
躊躇いつつ竜憲が言うと、本当に意外という口ぶりで、鴻は竜憲を見上げる。
「だって、鴻さんの手が土塗れだし、袖も……。」
鴻は言われて初めて自分の手をまじまじと見る。
「本当ですね。」
驚いた風でもなく、いつも通りの口調で頷く。
「でも、どうしてでしょう。」
「そんなの聞かれても困るよ。
こっちは状況証拠だけで、ここに鴻さんがいたのも気がつかなかったくらいだから」
鴻は手から穴へ目を移す。
穴…それも人の入れる程の。
そして、土を掘り返す鴻。
その姿を想像するのは、かなり困難である。
竜憲は想像しようとするが、あの表情の無い顔で、
一心不乱に穴を掘る鴻の姿が浮かんでくる前に、笑いの方が先にこみ上げてくる。
それでも、竜憲は気を取り直し、目前の問題に取り組もうとする。
この二つの符合はいったい……。
竜憲は胸の前で腕を組み、穴と鴻を見比べる。
竜憲は、はっとする。
思いついた答えは、とても口には出来ない内容だった。
あると言えばあるだろう。
鴻なら無意識にやっていそうだ。
鴻自身が、気づかないうちにやっていた事が笑いを誘う。
「現国魂って、やっぱり寒いのは苦手かな?」
「さぁ、どうでしょう」
このままだと、永久に気がつく事はないであろう。
鴻は真剣に考えている。
その姿が妙に笑いを誘う。
「いいよ。真剣にならなくて」
竜憲の中では、問題は解決したので早く部屋へ帰りたい。
こんな所で鴻と話していたと、大輔にでも知られた日には、何を言われる事か。
大輔は、鴻の事となると、些細な事も大きくしてしまう。
ある程度割りきれば良いと思うのに、そうはいかないらしい。
と、鴻が急に穴に向かって飛びこもうとする。
竜憲は慌てて、鴻の腕にしがみ付く。
「本当に冬眠するつもり!?」
思わず竜憲は口に出してしまう。
「冬眠…ですか?」
ぴたりと動きが止まり、鴻は静かに聞き返す。
竜憲は、息を呑む。
「あっ、ごめん。なんとなく、そう思っただけで‥‥。」
我ながら言い訳がましいな、と思いつつ鴻の腕から手を離す。
「そう、思いますか?」
言い訳に念を押されたようで、なんだか居心地が悪い。
もともと苦手な相手だ。
「だって、あの神様の姿を思い出せば、自然と想像できるよ。」
竜憲の言葉に、鴻は明らかに困惑していた。
自分が人と違っているとは認識していたが、『爬虫類だ』と言われたも同然のこの状況に。
たしかに、外的感覚は鈍いほうだとは思っていたが、『爬虫類』なら頷ける。
「鴻さんが悪いわけじゃないし……。
あの姿の神様の本能が、ちょっと行動をおこしただけじゃないの?」
なるべく軽く言ったつもりだが、鴻は深く考え込んでいる。
「俺が起きてきたから、未遂に終わったわけだし。」
そうである。
竜憲が起きていなければ、鴻は確実に穴の中に入って、土を頭から被っていたであろう。
それはもう、温泉にある土風呂位ではすまないであろう。
そして、いなくなった鴻を探す、弟子達も気の毒だ。
更に、見つけたとして、鴻を掘り返す彼等の姿も。
それにしても、よくあんな穴を掘ったものだ。
それも、素手で。
だが、鴻がやったとなると、なんとなく納得してしまう。
「兎に角、穴に入らずに済んだんだから、温かくして寝る事だよね」
竜憲は困惑したままの鴻を残し、母屋へと向かって歩き出す。
少し歩いて、竜憲は立ち止まり、そして振り返る。
「ああ、もちろん今夜の事は秘密にしとくから。」
その方が、互いにとってありがたいだろう。
何れ、鴻が行方不明になっても、自分がこの事実を知っていれば、探し様もあるだろう。
竜憲の方は、大輔にこの事を知られなければいいのだ。
相変わらず表情の無い顔が、静かに頷くのを確認して、竜憲は歩き始める。
鴻は竜憲から穴へ目を移し、少し口元を綻ばせる。
月が光を注ぎ、鴻の足元に意味を無くした穴が、ぽっかりと口を開けていた。
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