甘い唇

その女の、美しく微笑んだ口元から、真紅の液体が二筋流れ出ていた。
その姿は、なんとも儚げとしか言い様の無い、
不謹慎にも『そそられる』と言う言葉が似合う状況だった。
女の足元には、女が一度は愛した男が転がっていて、
その男が自分の知っている男だと言う事が、
この状況を現実だと認識させる唯一のものだった。

中沢は心の中で、いや、口の中で一人の男の名を唱えていた。
ひょっとすると、この女よりその男の方が恐ろしいかも知れないが、
少なくとも、その男は血など吸わない。
そう考えると、何だか気絶だけは免れるような気がした。

この三時間前に、その男から嫌というほど、お小言を頂戴してきたところだった。
と言うのも、中沢は超常現象と呼ばれるものに首を突っ込みたがるから、
会うたびに説教される。

友人として心配なのはわかるが、いい歳をした男を未だに子供扱いする。
不思議なことに、中沢がそういうことに関わった事を、
事細かなことまで知っているから、言い訳するのが苦しくなる。

今日も、いつものごとく記事にしようと考えていた事件の下調べに、
助言をしてもらおうと大道寺に行ったのに、『この事件から手を引け』と譲らない。
その上、ここ最近の行動を注意されて、あれやこれやと指示された。

相談役としては適任だが、小舅の才能もあるようだ……。

中沢は、最近そう思いはじめていた。

超常現象を記事にしている中沢の友人という点から見れば、
霊能者と呼ばれる彼が身近にいるのはそう不思議でない。
そして彼は、モグリの霊能者などではなく、正真正銘の霊能者なのだ。
それも、本物ばかりが集う、大道寺の中でトップクラスというほどの実力者なのだ。

ちょっと前に、全身の血液を吸い取られた死体の話だとか、
生気を吸い取られたとかいう怪奇事件があり、
今回の件も似たケースだと、彼に意見を聞きに行ったのだ。
 
下調べした所までの情報はこうだった。

 二月十四日早朝、Q市で二十四歳男性(大学生)が、
 体内の血液を抜き取られ倒れているのを、近くの専業主婦が発見。

 発見時、被害者はかなりの貧血状態で、
 倒れた状態の右首中央部に、
 ボールペンの先で穴をあけたような傷があり、
 そこを中心に直径四十p程の血痕がアスファルトに広がっていた。

 同月二十一日夕方、Q市の南隣のX町で二十八歳男性(会社員)が、
 同様の状態で倒れているのを、部活動帰りの女子中学生が発見。
 被害者の状態は前回と同様。

 同月二十七日朝、更にQ市の北隣のL町で、
 二十一歳男性(フリーアルバイター)が、
 同様の状態で倒れているのを、通勤途中の中年男性が発見。
 被害者の状態は前回と同様。

この三件の被害者は、それぞれ二日後に死亡している。
原因はもちろん、出血多量。
そして、三人ともに痩せ細っている事と、男性である意外共通点が無い。

連続殺人事件に切り替わるが、
犯人の手がかりはまったく出ないまま、三月に入る。

一件ならまだしも、三件も不可解な事件が続くと、
中沢のアンテナに『怪しい』が受信される。
どれも目撃者がなく、なんの為に血を抜くのかわからない。
前例を考えても、若い女の血液ならまだしも、男の血液だ。
何に使うというのだ?

血液を必要とする例も考えた。
美容のために使うなら、若い女の血液の方が有効だ。

となると、食用.......。
生きていく為に必要としているのか、それとも妖しい儀式に用いるのか?

一人で考え、行き詰まり、大道寺を尋ねたのだ。
そこで友人に言われたことは、

 「この件からは手を引くんだ。いいな」
 
であった。

それを聞いて素直に『はい、そうですか』と引き下がる中沢ではない。
彼がそう言うからには、本物の怪奇現象なのだ。

諦められないというポーズをとりつつ、呆れ顔の友人に説得されるふりをして、
『悔しいが諦めるよ』、と表面納得顔で大道寺を後にした。

その五分後に、Q市に住む大学時代の友人から、携帯に連絡が入った。
内容が中沢の調べているネタに関係がありそうだったので、
急ぎQ市に向う事とにした。
 
友人の、母方の従弟に最近彼女が出来たらしいが、
家族が言う事には、年上の彼女らしく、従弟の豹変に驚いているというのだ。

ここまでなら、息子の付き合いに反対しているだけなのだが、
その息子は日増しに血色が悪くなっていると言うのだ。

体力も無くなってきているらしいし、その女と付き合うまでは、
歳相応の健康的な青年だったそうだ。
それが、一週間の間に変わってしまったというのだから、妖しいものだ。

そっちの方がネタになるような気がするが、
年齢も二十九歳と、被害者たちの年齢の幅に近い。

男ばかりが狙われているのだから、犯人が女である可能性もある。
犯人がわかれば、動機など後から付いてくる。
中沢はそう思い、出版社のツテで、
三人の被害者の亡くなる前の行動を、調べてもらうことにした。

一人で動くより能率もいいし、その筋にしか入らない情報というものもある。
中沢は時間を無駄にしないように、考えながら動く。
締切りが迫っていると言う事もある。
手持ちのネタが、どれもいまいちの内容ばかりというのも、
中沢泣かせであった。
ある程度のネタなら、どうにか工夫して面白おかしく記事にできる。
手元にあるのは、それすら出来そうに無いネタばかりだったのだ。

焦りがなければ、
否、いつもの自分なら友人の制止の声が素直に聞けたかもしれない。
でも、もう遅かった。
 
Q市の外れにある、国道沿いの目印になるだろう喫茶店に、
なんとか辿り着いた中沢は、慌しく車のドアを閉めて急ぎ足で歩く。

喫茶店の扉を開くと、ありがちな『カランコロン』という音がして、
五人しかいない客のうち、三人が中沢を見た。
その中の一人を見つけ、中沢は歩み寄る。
窓側の、日の当たる角の席に二人は座っていた。
中沢は、岩野という同級生とその従弟が座っている向い側に、
上着を脱いで座る。
目の前に座る青年は、不健康そうというより、
病気だろうというくらい色が白く、ガリガリに痩せていた。

中沢は、一応名詞を取り出し、
相手側に向けてテーブルの上に置き、軽い自己紹介をする。
岩野の隣に座る青年は『米原』とだけ言い、けだるそうに椅子にもたれていた。

ウエートレスの持ってきた水を一口飲み、コーヒーを注文すると、
岩野は一息ついた中沢の前に、一枚の写真を裏返して置く。

   「多分、信じないかもしれないが、これがこいつだ」

と、隣を目配せする。
中沢も、そちらをちらりと見て、写真を裏返す。

 「おい、これは別人だぞ!」

中沢は、もう一度米原を見て言いきる。
如何見ても、別人の写真であった。

 「はじめて見る奴は信じないだろうが、
 家族も俺も少しずつ変わっていく、こいつを見てるんだ」

岩野は声を押し殺して中沢を見つめる。
二人の会話を聞いていた米原は、席を立とうとする。

 「おい、何処にいくつもりだ」

岩野に腕を捕まれ、米原はへなへなと椅子に座る。

 「美也子と待ち合わせしてんだよ。
  俺と写真を見比べたらいいんだろ?」

 「おまえは.....。いい加減目を覚ませよ。
 このままじゃ、あの女にとり殺されるぞ」

 「だから、美也子はそんな女じゃないって言ってるだろ」

二人は睨み合ったまま固まってしまった。

 「じゃぁ、その美也子さんに会わせてもらえるかな?」

言い争っていた二人は、驚いた顔で中沢の方を見る。

 「だって、その美也子さんが普通の娘さんだったら、岩野も安心だろうし、
 米原君も文句を言われずにすむわけだよな。一石二鳥じゃないか」

再び、岩野と米原は顔を見合して考えると、

 「俺の方はいいが、お前の方は?」

岩野がそう言うと、米原も、

 「美也子の疑いが晴れるなら、俺はいいけど」

 「よし、決まりだ。米原君は僕の車で送るから、
  美也子さんとの待ち合わせ場所までナビをしてくれ」

中沢は横に置いた上着に袖を通す。
事が決まると、時間が惜しい。
そろそろ日が暮れようとしているし、
夕暮れ時は魔物が跋扈すると言われるから、
なるだけ早くに事を済ませたかった。

米原を乗せ、車で国道を走っていると、中沢の携帯が鳴る。
普段なら、車を退避場に寄せるか、
コンビニに入れてかけなおしたりしていたのだが、
時間に余裕の無かった中沢はそのままとる。
 
予想通り、電話の内容はこの事件を追っている記者からであった。
被害者の何れも、殺害される一週間くらい前から、
新しい彼女がいたらしいことと、
一週間で別人のように痩せ細っていたことがわかった。

 「なぁ、君は美也子さんとは、いつから付き合ってるの?」

 「そろそろ一週間がくるかな?」

 「ヘェー。それで美也子さんは美人なのかい?」

 「その辺の女よりは綺麗だと思うよ」

中沢は心の中で、『ビンゴ』と言ったかどうかはわからないが、
間違いなく美也子はクロだと認識した。

待ち合わせ場所は、住宅街にある公園。
公園脇に車を止めて、二人は公園を歩く。
仕事が終わる頃なのか、待ち合わせが五時半。
春が近づき、日が長くなったとはいえ、辺りは少し暗くなり始めている。

米原の話では、まず彼が美也子に会い、中沢と会うかどうかの了承を得て、
その後、中沢が登場するという筋書きであった。

公園の隅にある梅の香りが、ふっとした瞬間に香ってくる。
中沢は、子供用のベンチか、カバとゾウが支えるベンチらしきものに腰掛ける。
米原は一人、桜の下にあるベンチで美也子を待つ。
美也子は、時間どおりにやってきた。
グリーンの上着に、明るい山桃色のタイトスカートで、
軽やかに米原に歩み寄る。

恋人同志.....。
その空間を切り取れば確かに、付き合い始めて一週間の恋人同志だった。

だが、数分後それは猟奇殺人の場となった。
 
楽しそうに話しをしていた米原は、美也子にキスをせがまれ、
少し離れたところに中沢がいるにも関わらず、いちゃつきはじめた。

細く折れそうな米原の膝の上に、
米原よりはややふっくらとしている美也子が横に腰掛け、
両手を米原の頬にかける。

中沢はくちの中で、『おいおい、よしてくれよ』と呟き、一旦目をそらす。

住宅街の公園で、それも六時前である。
人が通りすぎてもおかしくないのに、最近の若いものときたら…。
そう思った瞬間、人のうめき声が聞こえてきた。
 
 美也子は血が欲しかった。
 自分のこの体型を維持する為に……。

 自分の名前が美也子であるのかどうか、それも関係無い。
 たまたま、誰かが呼ばれたものを勝手に自分のものにした。
 この容姿も、もともとは主の身内のものであった。
 ひょっとすると、名前もそうなのかもしれない。

 主が亡くなり、主の想いと美也子だけが取り残された。
 主のいなくなった美也子は、一人で生きていく為、
 人間の血が必要だった。

 だから、襲った。

 美也子の容姿では、女はなかなか誘いにのってこない。
 美人の同性を煙たがる習性が、人間にはあるようだ。
 だが、男たちは声をかければ、自分の体のことなどお構いなしで
 美也子に会おうとするのだ。
 面白いくらい、血が手に入る。

 だが、この体を維持していく為の、
 主の強い想いがだんだん薄れていくと共に、
 血の必要性がシーソーの様に増しているのだ。

 美也子は焦っていた。
 このまま、主の想いが消えてしまったら…。
 米原の、頚動脈の辺りを指でなぞりながら、
 ここだという所でぴたりと止まる。
 ここに、美也子の欲しいものが流れている。

 真っ赤に染まるその唇を、湿った舌で舐めると、
 嬉しさのあまりゾクリと震えがくる。

 美也子の爪が、いつのまにか鋭くなり、
 尖った爪の先が米原の首に柔らかくのめり込む。
 そして、紅く流れ出た液体を、その美しい唇で吸い上げる。

米原は痛みも苦しみも感じない様子で、美也子の為すがままである。
米原に変化がが起こり始めた時には、殆どの血液が美也子の体を形成していた。
 
 出血多量の為、頭が先ず痛みだした。
 手も足も思う様に動かせない。
 膝の美也子が、いやに軽く感じる。
 そんなはずはない。
 美也子は人だ。
 この俺を騙すなんてことは無い…。
 意識がだんだん遠のき、米原は最後まで美也子を想い、
 ベンチからくずれ落ちる様に倒れた。

中沢は米原に走りより、彼を抱き起こすと、美也子を改めて見る。
唇から流れる血が、あまりにも似合いすぎていた。
軽い眩暈と共に、なぜ友人の言う通りにしなかったのか後悔した。

 (ここで自分も倒れたら、彼女に血を提供することになるのか?)

等と考えながらも、ずっと友人の名を繰り返し唱えていた。
まるで、映画のヒロインの様に、ヒーローの登場を待っていた。

裏切られた事は無いはずだ…。
中沢は賭けてもよかった。
相手が居ないのが残念だが。

中沢の神経が悲鳴をあげて、視界がブラックアウトする寸前、
聞きなれた小舅の、呆れかえった声が聞こえたような気がした。

カーテンを引いていない窓から、朝日が差し込み、
その眩しさで中沢は目を覚ました。
辺りを見ると、間違い無く自分の部屋である。
取り合えず洗面所に行き、鏡で自分の首を確認する。
血を吸われた後も、傷も無い。
 
 「どうだ。すこしは堪えたか?」

急に声をかけられ、中沢はびくりと体を強張らせる。

 「なんだ、いるならいると言ってくれ」

振り返ると、いつもの白の小袖に、紺地の袴姿の友人だった。

 「米原さんのご家族には、
  おまえと別れた後に襲われたと言っておいたからな」

そう言うと、薄手のコートに袖を通し、帰ろうとする。

 「おい、待てよ。あれはいったい何だったんだ?」

 「まだ懲りてないのか?呆れた奴だ」

冷ややかな顔で振り返り、眉間に皺を寄せる。

 「あれは、術者の式だ。
  術者の想いが強かったのか、あれだけが残り、
  形体を維持する為に血液を摂取していたんだ」

 「じゃあ、始末しちまったのか?」

 「失礼な。きちんと説得して、主の元に送ったよ。
  主のいる世界が幸せな場合もあるし、ああいう物が暴れ出すと、
  返す先が無いだけに厄介だからな。
  説得するのが一番いいんだ」

 「ほおぅ」

中沢は顎に手を当て納得する。

 「で、車も運転してくれたのか?」

 「あの時間走っていた車には、多少迷惑をかけたかもしれんがな」

   「ついでに聞くが、今日は何日だ?」

 「丸一日寝ていたことだけは、親切心だ言っておこう」

 「何!仕舞った」

中沢は慌ててデスクに向おうとして、テーブルの足で小指を打った。
あまりの痛さに、声も無く蹲る中沢を見届けて、くすりと笑うと彼は部屋を出た。

取り合えず、思ったまま気の向くまま書いちまったので、
所々抜けちゃっているかもしれない。
 許して下さい。
 勘弁して下さい。
 とりかえしがつかない事を…。

               秀一郎