ダークグリーンの車(かすみ談『パブリカ』と言うらしい)に乗り込み、
中沢の先輩だという妖しい女、かすみの実家に着いたのは、もう昼前であった。
山の裾のに石鳥居があり、そこをくぐって十五分少々山道を走った。
田舎‥というより山奥といって差し支えない。
確かに、集落毎に何軒か固まって家ははあるものの、集落が遠すぎる。
地図上では広い町であるが、人も疎らでひっそりとした町並‥山並み(?)である。
鳥居から十五分も奥にすすまないと、本殿が無い神社自体、
土地が十分なければなかなかである。
そうでないのなら、全国に名の通った、有数の神社くらいであろう。
境内を横切り、少し坂を下った所に屋敷の塀が続いていた。
昔の名残か、馬が通るわけでもないのに、馬避けが塀に沿ってあり、
塀の切れた所が門のようであった。
大道寺の屋敷も立派なものだが、ここはここなりに立派な屋敷であった。
門屋と呼ばれる、門番の詰所の跡があるところをみると、
かなり古い屋敷のようだ。
門を入ってすぐに左に迂回すると、砂利が敷かれており、
二台乗用車が止めてある。
かすみはその横になめらかにバックすると、切り返すことなくぴたりと着ける。
「はい、到着。お疲れ様でした。蒼凪家へようこそ」
かすみの声に中沢は目を開き、車から降りる。
鴻も最小限の音だけたてて、
居るか居ないかわからないくらいの仕草で、中沢の隣に立つ。
中沢は大きく伸びをすると、ぐるりと周りを見まわす。
「山だ」
「寝てたの?」
かすみは呆れたように中沢を見る。
「都会っ子なんだから、もっと大自然に感動なさい」
「へぇーい」
と子供のような返事をすると、
「で、何所にあるんですか?」
と中沢が聞く。
「取り合えずお昼にして、それから行きましょう」
かすみはそう言って、飛び石に添って歩く。
鴻が中沢を見て、小首をかしげると、
「お前の正体を見よう‥ってわけなんだ。」
何を言うかと思えば、いきなりにして中沢は『いひひひひ』と笑い出す。
たしかに、かすみはそうは言った。
だか、誰の正体を誰が見ると言っている。
正体を見ようとしている本人に承諾無しで、
帰る事が叶わぬ所まで連れ出し、尚且つ事の直前に告げる‥‥。
この男のやり口に、絶句してしまったものの、
のこのこ連れだってきた自分も自分だと、目の前が白くなりかけた。
中沢は、一旦笑うのを辞めると、中指で眼鏡を突きあげ、
「納得できない事って、俺的にかなりストレスなんだぜ」
と言い残して、かすみの後に続く。
なら自分は、ストレスだらけではないのか?
鴻は納得いかないまま、無言で後ろに続いた。
かすみの両親がもてなしてくれ、
鴻にも中沢にも満足の行く昼食を済ませると、再び玄関に戻ってきた。
只、鴻にしてみれば蒼凪家の面々の顔が認識できるというのが、
とてもむずかゆい感じがしたのだ。
其の上、親戚筋なのかとか問われても、鴻にとってはさっぱり興味のない話である。
食事が山菜やらの野菜中心だったのも、鴻的に助かった。
鴻には生き物の声が聞こえる‥そんな食事は気分が悪くなるだけだ。
動物のそれと植物のそれとは比べものにならない。
鴻はその声を聞くくらいならと、食事を拒否していた頃があったくらいだ。
そんな心配をしつつ食事をしていたため、
愛想笑いが出来たか不安ではあったが、
なんとか話を濁してその場を逃げた形となった。
中沢はじっーと人の顔を見るし‥‥。
自分の反応を見て、楽しんでいるようにしか見えないのである。
腹立たしい限りである。
と思っていても、表面に出ないところが、鴻の長所であり短所なのでもある。
「さてさて、裏の池まで歩くわよ。ああ、心配無いから、
そんなに距離はないから」
不安げにかすみを見た中沢を察して、大丈夫よと先に手を振って見せる。
車で走ってきた塀に沿って神社に入り、裏手にある木戸にかかる錠前を外し、
少し身を屈めて木戸を潜ると、小さな池が広がっていた。
池は蒲が茂る部分と、杜若の茂る部分と、蓮の茂部分とに分かれているらしい。
「小さな池でしょ。この隙間のところには黄色い睡蓮が咲くのよ」
と、かすみが指差す。
「こんな所に、蒲や杜若や蓮が並んであって、
互いに場所を奪い合わないなんて、とても珍しいと言われているの」
かすみはそう話しつつ、池の端に祭られている小さな社に向う。
その社の中に、青銅の鏡が奉られていた。
「これが水鏡ですか?」
中沢が屈んで、社の中を覗き込む。
「水鏡?」
鴻がかすみの方を見る。
「ええ、この辺りでは『龍神の水鏡』と言われていて、
相手の本当の顔‥要するに、本質が見ることができると言われているの」
「でも、これって青銅でしょ?ゆがんじゃって、
見えないんじゃないんですか?」
かすみは中沢の隣に膝をつけて、一礼してから中の鏡を取り出す。
「だから意味があるのよ。
この家のものが扱い、この池の水が無ければ見えないのよ」
かすみは、くすりと笑ってみせる。
幾ら似ていると言っても、かすみと鴻の違いはここなのだ。
女で鴻だと、多分世の中には馴染めぬまま、人生のアウト街道まっしぐらである。
鴻もその道のような気がするが‥‥。
表情があるということは、
ここまでも大きく違った人生を歩んでしまうのだと、中沢は改めて思った。
かすみは池の端にある、石臼のような台に鏡を置くと、
社に掛けられている勺を取る。
池の端にしゃがんで窪みに手を伸ばし、一杯水を汲むと鏡の上に掛けていく。
元からそこに有ったように、鏡はしっくりと填まっていて、
鏡面がきらきら反射していく。
「さぁどうぞ。誰から行くの?」
かすみは鴻と中沢とを見上げて、交互に見る。
「うっ、じゃぁ俺から」
中沢は恐る恐るしゃがみ込み、覗いて見る。
中沢が覗くと、波紋がぴたっと止み、鏡の煌きが収縮していく。
先程まで、歪んで見えていた鏡面は、磨いたばかりの普通の鏡になっていた。
横からかすみが覗き込み、鴻を手招きする。
「どう見えている?」
中沢は不安そうに聞く。
「相変わらず、呆れるくらい連れているわね」
「人の忠告を聞かないからだ」
かすみの後に、鴻も続けて言い放つ。
「本人はいたって平気ってのが、解せないわね」
「なんだよ。二人して。俺は変わってみえないぞ」
中沢は鏡に顔を近づける。
「貴方じゃなくて、後ろを見て御覧なさい」
確かに、中沢の顔は変ってはいない。
只、後ろに余計なものを引きつれているだけなのだ。
「私の調子によって、見える時と見えない時があるから、
こんなにはっきり見えちゃうと、後々が心配になって当然ね」
「こんなにもろに見えたの久々だ‥」
中沢は少し驚きの顔で、鏡から目を離す。
本人が自覚しただけでも、儲けもののようだ。
中沢が離れると、忽ち鏡は光を放ちはじめる。
「私が覗いてもいいけど、どうする?」
かすみは鴻の顔を見る。
「いえ、私が‥」
鴻は興味があった。
漠然とした自分の存在。
憑かれいてるわけでもない。
生まれ変わりというわけでもない。
何のためかも分からない。
只、絶対的な力が。自分を支配している時があるのだ。
知りたい。
例え、水鏡がホンモノでなくとも、それはそれなりに‥。
鴻は光の中へ、その黒目がちの瞳を向ける。
瞳と鏡が向き合うと、中沢の時と同じように光が収縮していく。
鴻の目にまず飛び込んだのは、白い蛇が鎌首を擡げている姿だった。
やはり‥。二人にどう見えているのかが気になった。
「あんまり男前ってわけでもないわけだ」
中沢は面白く無さそうに呟く。
かすみは無言のままだ。
「貴方にはどう見えているの」
かすみは中沢に聞いてみる。
貴方には?
鴻はかすみの言葉に耳を疑った。
(この鏡は見る者によっても見え方が違うのか)
そう仮設すると納得できる。
中沢に憑いているモノが見えたのは、彼女も見る能力があるからで、
他の誰かにも同様に見えるとは限らないのだ。
つまり、中沢には鴻の姿が、いつも通りに映って見えるのだろう。
では、かすみには?
「怒った顔が見える」
中沢の言葉にかすみは噴出す。
「それは、彼が本当に怒っているからよ」
「こいつが怒ると怖いんですよ。本当に‥」
中沢は鴻を指差す。
「貴方に付き合ってたら、怒りたくなる事が、沢山あると思うわ」
鴻は心の中で賛同する。
「今回だって、急過ぎるわよ。思いついたら実行する素早さは、
貴方のいいとこだけど、巻き込まれる周りの人にも、
気を使っても損にはならないでしょ」
どうやら、今回の件では彼女も被害者らしい。
中沢が剥れているのを尻目に、
「私には白い蛇が見えるのだけど‥」
と鴻に耳打ちする。
驚くでもなく、不思議に思うのでもない。
単に『ヒゲが生えてますよ』程度に耳打ちしてきたのだ。
鴻の方が少し驚き、鏡から顔が離れた。
やはり鏡の表面が輝き始め、眩しい光が立ち上る。
「今度は、私が覗いてみようか?」
かすみはにっこり笑ってみせると、鏡に顔を近づける。
二人の時と同じように光は収縮し、鏡の表面にかすみの顔が映るはずであった。
驚いたのは中沢ではなく、鴻だけであった。
鏡の中には、鴻に感じの良く似た女ではなく、蒼い龍の姿が映っているのだ。
「中沢‥彼女はどんな表情だ。」
鴻はそう聞くのがやっとであった。
確かに、自分の姿も『白い大蛇』に見えた。
だが、中沢にはいつもの自分、いや、自分の心の中が見えていた。
ということは、彼女の姿も自分とは違ったように見えているはずだ。
でなければ、鏡に映るものに対して、平静としていられるわけが無い。
「瞑想しているように見えているぞ」
中沢は、なぜ鴻がそう聞いてくるのか、不思議に思いつつ答える。
鴻は内心舌打ちした。
彼女は心を閉じているのだ。
でなければ、進んで本質が見える鏡など覗けるはずがない。
「貴方は見えるのね」
鴻の少し動揺した声を感じ取り、かすみは鏡から顔を離す。
「貴方が見たのは、多分ここの主よ」
そう言って、池に目配せする。
かすみが手際良く鏡を拭くと、元の錆かけの鏡に戻り、
勺で水を池に戻して、石臼の中を布で拭う。
「貴方が何を聞きたいかわかるわ。
答えに近いものかどうかはわからないけど、
蒼凪家の祖先がここの龍神と、
龍神に捧げられた人身御供の娘との間に生まれた子供だということ。
それと一緒に、この鏡の扱い方だけが代々伝えられている事なのよ。
だから、ぞうしてこんな風に見えるのかは、私にもわからないの」
鴻に向って、かすみはさらりと言いきる。
そう言われては、何も聞けない。
「へぇ、じゃぁ先輩は、龍神の末裔ってことになるんですか」
中沢が関心したように頷く。
「一応、伝承ではそうなるわね」
かすみは『不本意だが』と思われる口ぶりで、中沢に答える。
「今言える事は、例えば私の運転している車ね、
あれってパブリカって言ったでしょ。
でも、貴方達ににしてみれば、男二人が乗るのには狭いし、
最高速度は百二十五キロしか出ないし、
只のおんぼろ車っていう風に見えるわよね。
でも、私にとっては可愛い愛車なのね。この鏡ってそういう事なの」
中沢は不思議そうな顔で、かすみを見る。
「だから、中沢君にとって、本当の貴方の姿なの。私も然り、貴方も然り」
「覗く側の受け取り方‥というわけですか。」
鴻は静かに聞き返す。
「そうね、そして貴方から見た中沢君も、中沢君からみた貴方も、
これからずっと変りはしないのよ。
そこの所が、婚姻の占に用いられる理由ね」
「って、俺って一生こいつを怒らせてるってこと?」
「まぁ、そうなるわね。私にはあの姿、貴方には私の姿で、
一生認識は変らないわけ。でも、それは只の記号と一緒な事で、 『ああ、どこそこの誰々』っていう形容と変わりないのよね」
鴻は納得したというか、上手く丸め込まれた形に、いまいち満足していなかった。
それが顔に出ていたのか、
「ね、こっちに来て見て」
と、かすみは池の端の窪みに手招きする。
「ここ、覗いてみて」
鴻はかすみの言う通りに、池の窪みに身を乗り出して覗き込む。
「ね、いるでしょ」
かすみは、『めだかが泳いでいるわよ』といったように水面を指す。
澄んだ水面に映るのは、間違いなく蒼い龍と白い大蛇なのだ。
「本当はああしなくても見えるものなの。
でも、中沢君なんかはああした方が好きそうでしょ。
只単に、中沢君が覗いても水鏡は使えないの。
蒼凪家の人間が立ち会って、はじめて効力を発揮するものなのよ」
無邪気そうに笑うが、水面には未だに青い龍がこちらを見ている。
鴻の目には、彼女を守っているゥ・轤驍Aそのように見えた。
中沢にはさっきと変らない姿が映るからか、
話半分半分で理解しているようであった。
「貴方にも、私にも見る能力があるからそう見えるのよ。
現に中沢君の後ろにいるモノが、中沢君本人には見えないのだから。
まぁ、中沢君の後ろにいるモノが前面に出てきたって、
なんらおかしくはないと私は思える。
それに、私には貴方の姿が好意的に見えるのよ」
かすみの言っている事も、鴻なりにわかってはいる。
だが、かすみの言った通りに、この姿は好意的だろうか?
それとも、長いもの同士、理解し合っているのだろうか?
我ながら馬鹿らしい想像をしたと、鴻は苦笑して、
「おい、中沢。これを見せたかったんだな」
と、池を観察している中沢に声をかける。
「って言うより、俺が見たかったんだけどな」
と、すっきりとしない返事がかえる。
確かに、中沢的には『白い大蛇』の姿が見えれば、満足したかもしれない。
だが、中沢には見えなかった‥。
ここの龍神には、こう見えたまま一生を過ごせと、
道を示されたようなものである。
例え、本当の姿を見たとしても、中沢が鴻を見る真の姿は変らない‥
そういう事なのだろうか。
まぁ、中沢に見えたとして、興味は抱いても、
扱いはさほど変らないような気もする。
「貴方にとって、中沢君の存在も私の存在も、
今見たままで一生を過ごす‥。只それだけの事よ」
かすみがそう言って、木戸を潜る。
そう、自分たちには只それだけの事‥。
中沢がかすみの後に続き、鴻は最後に木戸を潜る。
潜る直前、なにげなく鴻は後ろを振り返ると、
龍神の棲むといわれる池が、あの鏡の様に煌いていたように見えた。
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