「ねぇねぇ、コウ。これってなんて読むの? 文字だろ、これ?」
糸で綴じられた黄ばんだ紙束をかかえて、サキがリビングにやってきた。
「また隣をあさってたのか。今度はなんだ」
丈夫なだけが取柄のアパートの最上階の二部屋のうち、一つは住居用、もうひとつは書庫として俺が借りている。
書庫といっても、俺が持っていた本をただ棚に並べて置いてあるだけで、俺にとっては単なる物置程度の価値しかなかった。
もっとも獣医が自分の部屋に入りきらなくなった本を運び込んでいるので、いつの間にかちょっとした図書館並みの蔵書量にはなっていたのだが、一度目を通した本の内容はすべて頭の中に記憶されてしまう俺としては、何度も繰り返して本を読むという習慣はなかった。
それでも一度手にした本を捨てる気にはならず、そのままにしているうちに書庫ができてしまった。
廊下を隔てた向かい側のその部屋が、近頃のサキのお気に入りの場所だった。
最初は目に付いた本を1,2冊こちらに持ち帰って読んでいたのだが、段々と本を選ぶ時間が長くなり、その場で立ち読みを始めて動かなくなることが増えた。
見かねた俺が机と椅子を運び込んでやると、食事時以外は篭りっきりという日もあった。
自分の名前以外の記憶が無いといっても、文字の読み書きや計算、言葉などまで忘れてしまっていた訳ではないサキにとって、本というのは、自分の中の空白を埋めるのに最適なアイテムだったのだろう。子供向けの御伽噺から始まり、植物や動物の図鑑、歴史書や宗教本、民俗学や軍事関連の専門書まで片っ端から読み漁っている。
今はどうやら古文書の類に心惹かれているらしい。
抱えてきた紙束は、海の向こうの東の国の言葉で書かれたものだった。
俺の母親がこの地に渡ってきた時に持ってきたものだと聞いている。
母の国の大昔の貴族や、文化人と呼ばれた人々が詠んだ恋歌を記した物だということだった。
俺は母の顔を知らない。
ただ、純粋なヒト族ではなかったらしい。
母の国では魔族は妖(あやかし)と呼ばれ、交わる事は禁忌とされていたと言う事だった。
母は、その禁忌の子供であるがゆえに、国を追われてこの地に流れ着き、父と出会ったのだと
アイツは言っていた。
「コウ?」
「あ、ああ……。これは和文字だ」
「わもじ?」
「海の向こうの、東の国の言葉だ」
「あ、それこの前読んだ本に載ってた。周りが全部海に囲まれた国なんだろ?」
「ああ」
「へぇ。こんな文字が使われてるんだ。どうやって読むの?」
「今とは少し違っているし、これは歌を詠んだものだからリズムが……」
俺の解説を一言たりとも聞き逃すまいと、身を乗り出してくるコイツを可愛いと思う。
正気を取り戻してからのサキは、学ぶ事に貪欲だった。
料理も洗濯も、基本を教えてやっただけですぐに上達した。
書庫から持ち出した料理の本を片手にキッチンに立つ後姿が微笑ましくて、俺はキッチンを見渡せるリビングのソファに陣取る時間が増えた。
「この歌の脇に書いてあるのは?」
「ん? これはこの歌を詠んだ作者の名前だ」
「俺の名前もこの文字で書ける?」
サキの興味は、文章の内容よりも文字そのものにあったようだ。
和文には表音文字と表意文字が混じって使われている。
サキが指差したのは表意文字の方だった。
「そうだな……」
俺は手近にあったメモに二つの文字を並べて書いた。
『沙』『貴』
「これで『サキ』?」
「そうだ」
「意味は?」
「『沙』は砂。『貴』には大事なものって意味がある。ま、砂漠の貴重品ってとこか」
「えー? 何だよそれ。判んないよ」
「砂漠で一番大事なのは?」
「え……と……。水……かな?」
「じゃぁ、その水はどこにある?」
「水があるっていったら、オアシスだろ?」
「判ってるじゃないか」
「え? え?」
俺は顔中を疑問符だらけにしているサキを置いてキッチンに向かった。
これ以上の追求からは出来れば逃れたかった。
お前は俺のオアシスだからなどとは、口が裂けても言えたもんじゃない。
お前に会って、俺は自分がどれだけ渇いていたのか気付いてしまった。
多分、もう、手放せない。
冷蔵庫を空け、缶ビールを取り出した俺は、プルトップを引き上げ、中身を一気に喉の奥に流し込んだ。
せめて喉の渇きぐらいは、自分で癒そう。
お前を飲み干してしまわないように。
リビングに目をやると、サキはにやけた顔で文字を眺めている。
意味はともかく、字面は気に入ったようだ。
ふとこちらに送られた視線が、俺の手にしたビールに止まる。
「あーっ! コウ、ビール飲んじゃったのっ!?」
「え? 駄目だった、のか?」
「1本だけ残ってたから、今日の晩御飯に使おうと思ってたのに……」
「……ビールだぞ?」
「ビールで肉を煮るんだよ! ああああ、今夜のメインディシュが……」
どうやらまた新メニューを出してくれるつもりだったらしい。
そういえば、いつもは切り分けて冷凍保存する肉が、かたまりのままで氷温室に保管されていた。
「そういうことは、できれば先に言っておいてくれ」
「一週間も冷蔵庫に入れっぱなしにしといたくせに、なんで今日に限ってビールなんだよっ!」
お前を押し倒したくなったから、気を鎮めるために、とりあえず飲んだ……とは言えない。
ここはやはり代替案を提示して、素直に謝っておくべきだろう。
俺は酒屋までの距離と調理にかかる時間を考えて、そう結論付けた。
「悪かった。今夜のメシは俺が作るから。ビール煮は次の買出し日に食わせてくれ」
「だってかたまり肉だよ?」
「ふふん、任せろ。ローストビーフと岩塩包み、どっちが食いたい?」
実のところ俺も料理をするのは嫌いじゃない。
自分一人の為だと思うと作る気がしないだけだ。
顔に『至福』の文字を張り付かせて平らげるコイツの為なら、フルコースだろうが満願全席だろうがいつでも作って出してやる。
「え? え? ど、どうしよう。どっちがいいかな。分厚いローストビーフもいいし、岩塩包みのあの割る瞬間もわくわくするし、ああでもでもでも……っっ」
「まぁ、下ごしらえを始めるにはまだ少し時間がある。肉が室温に馴染むまでには決めてくれ」
俺の提案にあっさりと乗ったサキは、究極の選択だと言わんばかりの表情で悩んでいる。
ゆるむ頬を押さえるように両手を添えて考え込む姿は、そのまま俺のメインディッシュにしたくなる。
いつまで抑えておけるだろう。
俺は右目の奥に軽い疼きを覚えながら、オーブンの手入れを始めた。
END
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